2002/04/14

『家』



 いつも不思議に思っていた。いったい誰がこの家に住んでいるんだろう。人が住んでい
る様子はまったくない。ぱっと見たところ、平屋の一戸建てで、庭があるごく普通の家だ。
ただし、庭の雑草が無ければだけど。そこは足を踏み入れればすぐわかる、泥棒泣かせの
雑草地帯となっていた。



「誰が住んでんだろ、この『家』」
「さあな。いっつも誰もいないけどな」
 僕が聞くと、ユウちゃんは首をひねりながら答えた。
「今日は土曜だから学校は昼までだろ。昼メシ食ったらこの『家』を調べてみようぜ」
 教室の前まで来ると、ユウちゃんは突然こんなことを言い出した。
 僕も1人でこの家に来るのはいやだけど、2人なら安心だろう。
「いいよ。じゃあ1時にしよう。1時に公園で待ち合わせね」
「おっけー。秘密道具持って来るの忘れんなよ」
 そう言うと、ユウちゃんは自分の教室へ入っていった。僕はその後ろ姿を眺めていた。
ユウちゃんの後ろ姿を見ていると、僕はとっても安心できる。かくれんぼのとき、ケンカ
のとき、オニごっこのとき…。



 ぼんやり考えていたら、いきなり頭をたたかれた。
「おっはよ。なにぼーっとしてんの?」
「アヤちゃん、何すんだよ」
 僕は頭を押さえながら、振り向きもせずに言った。僕にこんなことをするのは一人だけ
なのだ。
「あたしは、お・は・よ・うっていったんだけど」
「お・は・よ・う」
 そう言うと、アヤちゃんは満足げにうなずいた。
「はい、よろしい。あいさつされたら、あいさつを返すのが女の子とのおつきあいっても
んよ」
 それは違うだろ。
「何、その不満げな顔は。それで、どうしてぼーっとしてたの」
「ぼくが?いつ、どこで?」
「あなたが、いま、ここで」
「そうだったかなあ…」
 僕は首をひねった。そうするとアヤちゃんは、やれやれといった感じで教室に入っていっ
た。
 僕は自分では自覚がないが、ときどきぼーっとするらしい。
「それさえなければ、今ごろ女の子にモテモテよ」
アヤちゃんにはこう言われたことがある。よくわからない。べつにいいけどね…。
 きーんこーんかーんこーん…
 チャイムが鳴ったので、僕はあわてて教室に入っていった。
 1時間目の休み時間。いやな理科の授業が終わってぐったりとしていると、アヤちゃんが
話しかけてきた。
「ねえ、今朝なんかあったの?」
「どーして?いつもどおりだと思うけど…」
 僕はぐったりしたまま答えた。
「相変わらずぐったりしてるわね。あっそうか。1時間目はあんたの嫌いな理科だっけ」
「そう、そのとーり。せいかいでーす」
 僕はぐったりしたまま答えた。
「しかしそんなにいやかなあ、理科って。実験とかあるからあたしは好きだけど」
「ぼくだってじっけんはきらいじゃないけどさー。ヤなもんはヤなんだよ。あーあ」
 僕はぐったりしたまま答えた。
「まったくしょうがないわね。とにかく早く行きましょうよ。遅れるわよ」
「へ?……あっ、そうか! 次は体育でプールだっけ!」
「そうよ。わたくしのエレガントな水着姿が見たかったら、はやくしなさい。オーホッホッ
ホ」
 アヤちゃんは変なポーズで変な笑い方をしながら歩いていった。僕もすばやく水着を準備
して走り出した。別にアヤちゃんの水着が見たいわけじゃないけど。



「位置について、…よーい、スタート!」
 ざっぱーん
 ぶくぶくぶく……
 僕は息を止めたままどんどん進む。自慢じゃないが、僕は息継ぎさえしなければクラスで
一番のスピードがだせるのだ。他のやつは早くも息継ぎをして普通に泳ぎ始めている。まだ
��メートルぐらいなのに。根性のない奴らめ。
 ぶくぶく……
 10メートル経過。まだまだいけるぜ。きょうのおれは!
 ぶく…
 15メートル付近。さすがにつらくなり息継ぎ。同時にチラッと後ろを見ると、はるか後
方に他のやつらの水泳帽が見えた。ふっ、勝ったぜ。後は残りの10メートルを泳ぎきるだ
けだ。
 ざばっざばっざばっ………
 ぱしっ!
 僕は手を懸命に伸ばして、壁にタッチした。すぐさま後ろを振り返る。
 あれっ…だれもいない…
 プールサイドを見ると、僕以外の奴はすでに泳ぎ終わって、休んでいた。
「なんで?」
「なんでじゃないわよ。あんたが一番、ドベなだけよ」
 アヤちゃんが僕の疑問に答えた。僕は首をかしげながらプールからあがった。
「15メートルぐらいまでは不気味なほど速かったけどね。それからあとは、まるっきりダ
メね」
「何がダメ? 教えてよ。」
 僕は疑問があると、解決せずにはいられないのだ。そのためならどんなことだってしてや
る。
「お礼は?」
「へ?」
「へじゃないわよ。教えてあげたら、どんなお礼してくれるの?」
「僕にできることなら、なんでも。ただしひとつだけ」
 僕は間髪をいれずに答えた。ここで変な間を入れたら相手はいろいろ考えるから、すぐ答
えるほうが都合のいいことが多いのだ。(アヤちゃんに対してはだけど…)
「ふーん、イマイチしんじられないけど・・・ま、いいわ。約束ね」
「約束する」
「じゃあ教えてあげる。まず、最初にフォームが悪い。腕はまっすぐ伸ばすほうがいいんだ
けど、水をかくときぐらい曲げたほうがいいんじゃない? それから、息継ぎの時間が長い
わよ。何であんなに吸い込むのかな、何分ももぐるわけじゃないのに。そして足はなぜバタ
足じゃないのよ。普通は自然にバタ足を使うと思うけど」
 ほほう、聞けば聞くほど何でダメなのか納得できる。しかし僕は今までどうやって泳いで
たんだろ。
「あ、もう1個大切なこと忘れてた」
「何?どんな小さなことでもいいよ。教えて」
 ここまできたら全部言ってもらおう。そのほうがすっきりする。すると、アヤちゃんは僕
を指差し、
「それはね・・・・・・・・・顔よ!」
「なんでやねん!!」
 ぷにっ
 僕は間髪をいれずつっこんだ。ツッコミにはすばやさが必要だ。でもおかしいな、いつも
ならビシッて音なのに・・・。不思議に思い、アヤちゃんのほうを見ると、なんと僕の手が
アヤちゃんの胸を・・・
「な、何すんのよっ!!!このすけべっ!!!」
 どげしっ
 ざっぱーん
 ぶくぶくぶく・・・
 視界がゆがんで、たくさんの泡が僕の口から出て行った…。



 気が付いたら、僕は白いベッドに寝ていた。まわりはとても静かだった。時計の秒針が動
く音が聴こえる。
 状況を分析する。どうやら、アヤちゃんのすごいまわしゲリが僕に炸裂した・・・らしい。
腰がひどく痛い。その後、プールに落ちたようだ。鼻の奥がつーんとする。
 僕が腰をさすっていると、部屋の扉がガラッと開いて先生が入ってきた。
「あ、ようやく気が付いたみたいね。大丈夫かな?」
「ちょっと腰が・・・」
 ずきずきするんですけど。
「ああ、すごい蹴りをもらったみたいね。あなたを連れてきた男の子が言ってたわ。『あん
な蹴りを見たのは初めてだ。初めて女の子のハダカを見たときみたいに感動した』って」
 僕は苦笑するしかなかった。かっこ悪い以外の何者でもない。
「先生、まだ腰が痛いんです。シップか何かありませんか。」
「分かってる、ちゃんと用意してあるわよ。ただ、これを貼るには、あなたが水着を脱ぐ必
要があるんだけど・・・。」
 先生はそう言って、冷蔵庫からシップを取り出した。
「何で先に貼ってくれなかったんですか?」
 僕は素朴な疑問を口にした。寝てるときに貼ってもいいと思うけど。すると、先生は顔を
赤らめて言った。
「君は、わたしが寝てる男の人の服を勝手に脱がす女だと思うのかな」
「・・・思いませんけど、でもなんか違いません?」
「わたしにとっては重要な問題なの!」
 僕は、少し怒ったように言う先生からシップを受け取り、腰に貼った。冷たくて気持ちよ
かった。
「まあ、若いんだからすぐ元気になるわよ。まだ授業は半分ぐらい残ってるけど、ゆっくり
寝てなさい。先生には連絡しておくから」
 そう言うと、先生は保健室から出て行った。何でも今日はケガ人や病人が多いらしい。人
気アイドルはツライわね、なんて言ってた。僕はあえてその言葉にチェックを入れなかった。
それが男とゆうものだ。
 しかし、困ったことになった。このままではユウちゃんとの約束が守れない。とにかく立っ
てみよう。
 ぐきっ
「!!!!!」
 僕は声にならない悲鳴をあげた。無理をすれば立てないこともないと思うが、それにして
も痛い。すでに事故から30分は経過したはずだが、これでも回復しているのだろうか?
 僕は立つことをあきらめて、おとなしく寝ることにした。先生の言葉とシップの効力を信
じて・・・



 きーんこーんかーんこーん…
 チャイムの音で目が覚めた。どうやら横になっているだけのつもりだったが、眠ってしまっ
たらしい。
 時計から察するに、今のチャイムは3時間目の終わりのチャイムのようだ。平日なら10
分の休み時間の後、4時間目が始まるんだけど、今日は土曜日なのでこれから掃除の時間だ。
 無理すれば起きられないこともないけど、ここは病人の特権ということで寝ていよう。誰
かに起こされたら今起きた振りをしよう。先生をいない事だし。
 そう思っていたら、扉の開く音と共に何人か入ってきた。どうやら保健室の掃除当番らし
い。寝たふりしなきゃ!
「あーあ。今日でようやくこの保健室の掃除とオサラバできるよ」
「あーあ。今日でようやくアンタのぼやきとオサラバできるわ」
 女の子が皮肉で返事した。毎日ぼやきを聞かされていたようだ。
「だってさ、このだだっ広い部屋はさ、普通の教室の2.5倍は広いよ。不公平だと思わな
いの?」
「しょうがないじゃない、くじびきで決まったんだから。そりゃあね、広いとは思うけど」
 ぶつぶつ文句を言いながら、掃除をしてるみたいだ。床をホウキで掃く音が段々近づいて
きた。
「それにさ、今日はアヤちゃんがいないし」ぶつぶつ。
「そういえばいないね、どうしたの?」
「アヤちゃんが先生に言ってるの聞いたんだ。『今日は保健室の方角はタロット占いでも風
水学的にもよくないとでていますので、教室の掃除を手伝います』てさ」ぶつぶつ。
「それで? 先生なんて言ったの」
「わかるでしょ。先生に占いの話をしたら100%信じるって」ぶつぶつ。
「ああ、先生の今の彼氏は占いで見つかったって言ってた。」
 なんでも、手相を占ってもらっていた所に、昔先生が憧れていた男が客として来たらしい。
偶然の再会に加えて、お互い占い好きという新事実が2人の距離を縮めた、というようなこ
とを朝のホームルームで言ってたのは、つい2週間前のことだ。さすがアヤちゃん、先生の
心理をついたいい作戦だ。
「まあ、先生のOKがあるからさ、しょうがないけどさ、でも…」ぶつぶつ。
「さっきからぶつぶつうるさいっ!! あんな事件の犯人なんだし、ここに近づきたくないの
も分かるでしょ。わたしだって顔合わせづらいと思うよ?すごかったもん、あのキック」
「そりゃ、あんなことしちゃあね、納得」
 それから、二人はさっさと掃除を終えて保健室を出て行った。ぶつぶつ言いながらだから、
掃除は適当だったようだ。僕が寝てるベッドまで来ていない。気づかれなかったのか、見て
見ぬふりをしたのかはよくわかんなかったけど。



 それから少し経って、またガラガラと扉の音がした。誰か来たみたいだ。寝たふり寝たふ
り。
 入ってきた人は、静かに歩いて、仕切りのカーテンを開けた。雰囲気から察するに先生だ
ろうか。
「寝てる…のか」
 その人は呟いた。それから近くに椅子に腰掛けたみたいだ。どうしよう、長居するつもり
なんだろうか? 起きたほうがいいのかな、寝てたほうがいいのかな。
「やっぱりあたしのせいかな・・」
 このセリフから、ここにいるのが誰だか分かった。アヤちゃんだ!寝たふりモード継続!!
「寝ててよかった。でも起きててくれたほうがもっとよかったかな…」
 アヤちゃんはひとり言を言っているようだ。ささやくような小さい声で。
「顔見た瞬間にあやまろうって決めてたのに。タイミング…悪かったみたい。」
 そう言うとアヤちゃんは立ち上がった。音と気配でなんとなくだけどわかる。
 足音が遠ざかってゆく。しばらくして水を汲んでいる音が聞こえてきた。何するつもりだ
ろ。
 僕は寝たふりを続けた。今起きていることを悟られちゃダメだ。ひとり言だから言える事っ
てあると思うし、なんか盗み聞きするみたいでイヤだけど、それでも聞いてみたい気持ちの
ほうが強かった。
 アヤちゃんは洗面器に水を入れて持ってきたみたいだ。タオルを水でしめらせて、僕の頭
にのせてくれた。ひんやりとして気持ちいい。
「悪かったとは…思わないけど。ちょっとやりすぎたかなって思ってるんだよ?」
 しばらくしてからアヤちゃんは呟いた。
「ケンカなんてしたくないから。すぐあやまろうって、思ったんだけど…。すぐここに来て
れば、それが出来たのかもしれないけど。あのときは…あたしもびっくりしちゃって、あの
後ずっと顔がまっかっかだったんだよ」
 アヤちゃんの気持ちが伝わってくる。うそのない本当の気持ち。面と向かって言われたら、
こんなふうには思えなかったかもしれない。だけど、今の寝たふりの僕にはすごくはっきり
と伝わった。うれしかった。じわーっと伝わってくる気持ち。あったかい、とってもしあわ
せな気持ちになれた。
「また、後でね…」
 そう言って、アヤちゃんは部屋を出て行った。僕はアヤちゃんが出て行くのを薄目で確認
してから、ようやく起き上がった。時計を見ると、もうすぐ昼の12時になろうとしていた。
ふと気づくと、腰の痛みはなくなっていた。



 戻ってきた保健の先生にお礼を言って、僕は教室に戻った。教室には担任の先生と、何人
かの生徒がいるだけだった。帰りの連絡会はもう終わったようだ。
「お、やっと戻ったか。どうだ、具合は?」
「ぐっすり寝たおかげでよくなりました」
 僕を見つけた先生が声をかけてきた。僕は事実のみを簡単に答えた。あの不思議な感覚は
説明してもわかんないと思うし、説明するとあの気持ちが薄れちゃいそうだったから。
「そうか、よかったな。…まあ若いうちはいろいろあるもんだ。自分は間違ってないと思う
こともあるだろう。事実そうだとしてもだ。そう考える前にちょっとだけ相手のことを考え
ることが大切だと先生は思う。わかるかな?」
 先生はやさしい目をしていた。先生もいろいろあったんだろうか。
「はい。…僕も、そう思います。でも先生もまだ若いですよね。それってもしかして体験談
ですか?」
 そう聞くと、先生はニヤリと笑い、
「…ま、な。」
 とだけ答えた。少し都合が悪いらしい。僕は深く追求するのをやめておいた。先生に敬意
を表して。
「じゃ、僕帰ります。先生さようなら。」
 先生に挨拶をして教室を出た。早くしないと昼御飯の時間がなくなっちゃうからだ。
「ああ、そうだ。伝言があったんだ。『悪いけど、先に帰るね』だそうだ。」
 先生が窓から顔だけを出してそう言った。
「どういうことですか?」
「言葉どおりの意味だが?」
 僕の問いに先生は、こいつ何言ってやがんだ、というような表情で答えた。僕も答えはお
よそ見当がついたが、あえて先生に聞いてみた。
「誰からの伝言ですか」
「教えない。教えたらつまんないだろ。それに・・・」
 先生はニヤリと笑い、こう言った。
「お前はわかってるんだろ。わかってるやつにわかってることを言うのはそいつに対して失
礼だからな。」
 僕は何も言わずただ、ニヤリと笑いその場を後にした。
 校舎から出ると、空は青一色の素晴らしくいい天気だった。僕は息を目いっぱい吸い込ん
で家に向かって走り出した。ちょうど12時のサイレンが鳴り始めていた。



 家に着いてからすぐ昼飯の準備をした。土曜の昼はラーメンと決まっているので時間がか
からなくていい。小さい頃からそうなので、すでにラーメン作りの腕前は大人顔負けである。
��ただし、インスタントラーメンのみ。カップラーメンは不可。腕のふるいようがないゆえ。)
 お湯を沸かしている間に、冷蔵庫からねぎを取り出し刻み始める。僕は長ねぎは嫌いなの
だが、ラーメンに入っているねぎは食べられるので、ラーメンのときはたっぷり食べるよう
にしている。
 ボウルに半分ぐらいになった所で、切るのをストップ。
 次に、お鍋に水を入れてお湯を沸かす。水は多めに入れておく。
 お湯が沸いたところで、ボウルのねぎを半分お湯に入れる。
 しばらくしてから、めんを入れる。めんがほぐれる間に、フライパンで残りのねぎを炒め
る。少量のゴマ油で炒めるのがポイント。
 めんがほぐれたら、スープの素を入れ煮込む。コトコト。
 最後に、10秒ぐらい最大火力で煮込む。どんぶりに盛り付け、炒めたねぎをのせて完成。
 僕特製、ゴマねぎラーメン。名前だけ聞くとゴマとねぎの入ったラーメンみたいだけど、
実際はねぎの入っただけのラーメンだけである。食べた人にだけタイトルが納得できる秘密
主義な奴である。
 僕は念入りに手を洗ってから割り箸を取った。やっぱりラーメンは割り箸で食すものだと
思う。
 まずはラーメンを一口。ちゅるるるっ。僕はスープではなく、めんから食べる派なのだ。
今日の出来は・・・まあまあだ。ねぎの香ばしい香りが食欲をそそる。ゴマ油のからみ具合
も中々の出来栄えである。
 僕は、ちゅるるるっ、ごくごく、ちゅるるるっ、ごくごく、と繰り返し、10分ほどで完
食した。満腹満腹。
 時計を見ると、12時30分ちょうどだった。約束の時間にはまだ早い。僕はどんぶりを
手早く洗って、部屋へ向かった。秘密道具を押入れの奥の奥から取り出す。これを忘れちゃ
始まらない。カバンにしっかりつめこんでこれで準備万端。
 まだ時間はあるので、腰の調子を完全にするため、少し横になることにした。目を閉じて
深呼吸する。あたたかい何かが腰を中心として体全体に広がっていった。体が軽くなって、
ふわーっと浮かんでいるような気分だった。



 その日は朝から暑い日で、テレビのニュースでは最高気温は35℃になると言っていた。
僕は『家』の前にいた。時間は昼の1時30分。僕は・・・1人で立っていた。やっぱり、
ユウちゃんは来ていない。当たり前かもしれない。きちんと約束したわけじゃないから。あ
の日から1週間が経っているのだから。



 あの日、僕は見事に寝てしまった。少しだけのつもりが気が付いたら2時を過ぎていた。
大慌てでカバンを持って公園までダッシュした。息を切らせて走った。
 公園には5分ぐらいで着いたけど、ユウちゃんの姿はそこにはなかった。
 砂場で遊んでいた子達がいたので、ユウちゃんのことを聞いたけど知らないみたいだった。
 僕は先に行っちゃったのかと思って、『家』まで行ってみた。だけどそこにもユウちゃん
はいなかった。かわりに、門のところに看板がかけられていた。関係者以外立入禁止。朝見
たときにはなかった看板だ。こんな看板があったらユウちゃんも入ってないだろう。
 そう考えて、他にユウちゃんが行きそうな所を探してみた。
 結果は・・・ダメだった。僕はどうしようもなかったので、最後にユウちゃんの家まで行っ
てみた。ユウちゃんの家には誰もいないようだった。呼び鈴を押しても音が寂しく鳴り響く
ばかりだった。
 僕は疲れきった体を引きずって家に帰った。ユウちゃんに会えなかった僕の足はひどく重
いような気がした。
 家の前には見覚えのある人影。・・・アヤちゃんだった。アヤちゃんは家の前をうろうろ
しながら様子をうかがっているようだった。近づいていくとアヤちゃんは僕に気づいて、気
まずそうな顔をした。
「どうしたの?」
「話が・・・あるの」
 そう言ってアヤちゃんはうつむいていた顔を上げた。今の今までいろいろ考えていたけど、
何かを吹っ切ったような顔だった。
 僕はアヤちゃんに部屋に上がってもらった。しっかり腰を落ち着けて聞こうと思ったから。
それだけアヤちゃんの顔が真剣だったから。
 ジュースに入れた氷が溶けきるぐらいの時間が経って、アヤちゃんはようやく口を開いた。
「・・・ごめんなさい。あたしが悪かったです。・・・本当にごめんなさい」
 僕はこんなにアヤちゃんがしおらしくしているのを見てびっくりした。と同時に、素直に
謝ってくれる気持ちがうれしかった。
「ありがとう。・・・僕も悪かった。何を言っても言い訳になるかもしれないけど、あれは
・・・わざとじゃないんだ。本当に、こっちこそごめん」
 僕は今の正直な気持ちを伝えた。どっちが悪いとかそういうのじゃない。簡単な言葉でい
えば、あれは不幸な事故だったってことになる。どっちも悪くないともいえるし、悪いとも
いえる。だけど、問題はそういうことじゃなくて、僕がアヤちゃんに悪いと思ったこと。ア
ヤちゃんが僕に悪いと思ったこと。そしてその気持ちをお互いが相手に伝えようと思ったこ
と。そのことが大事なんだと思う。
 僕が言ったことばを聞いて、アヤちゃんはにっこり笑った。いつもの笑顔で笑った。
「・・・こうやって、いつも素直だとうれしいんだけどな」
「・・・それはあたしのセリフなんじゃないの?」
 アヤちゃんはすっかりいつものアヤちゃんに戻っていた。もうちょっとぐらい、しおらし
いままでもいいと思うんだけど、な。



 あの日から僕はユウちゃんに会っていない。ユウちゃんの家はずっと留守にしている。連
絡の取り様がなかった。僕はユウちゃんを待ちつづけるつもりだ。1人で『家』を探検でき
ないわけじゃないけど。2人でという約束だったから、今度こそその約束を守りたい。
 そうして立っていると誰かが背中をつついた。
「こんにちは。何してんの?」
「・・・アヤちゃん、どうしたの?」
 僕はバカみたいに質問を返してしまった。案の定、
「あたしは、こ・ん・に・ち・はっていったんだけど」
 アヤちゃんはいつも通りに言ってきた。
「・・・こんにちは」
 いつものやり取りが繰り返される。僕もなかなか進歩しないもんだ。
「・・・約束だから」
 僕はアヤちゃんの質問に答えた。これしか答え様がなかったし、答える必要もなかったか
ら。
「そう。わかった。じゃあ、明日は・・・暇?」
「まあ、暇だけど」
 僕はその答えしか思いつかなかった。
「明日の2時にあたしの家に迎えに来て。一緒に図書館に行こう」
「え・・・」
「じゃ、約束したからね。忘れちゃだめだよ?」
 そういってアヤちゃんは歩いていった。あまりにも唐突で一方的だった。だけど、ちょっ
とうれしい。アヤちゃんが僕のことを思って言ってくれたのがわかったから。
 僕は約束を守ることの大切さを学んだ、ような気がした。ユウちゃんに会ったらきちんと
謝ろう。そうしよう。僕はアヤちゃんとの約束を心に刻んだ。忘れないように。
 空は雲ひとつなく、澄み切っていた。陽射しは強かったけど、ときどき吹いてくる涼しい
風が僕を包んでくれているようだった。