2004/08/28

「水面に映る月」(君が望む永遠)



「ほら! 孝之急いで!!」
「……ぜはぁ……ぜはぁ……俺は、もう、だめだ」
「バカ言ってんじゃないわよ、遅れたら一生許さないんだからねっ!」
 水月と孝之は走っていた。アテネ行きの飛行機の出発時間まであと少し。
 絶対に遅れるわけにはいかなかった。



 茜のアテネオリンピック出場が決まった。
 私の『テレビで応援するよりも直接現地で茜を応援したい』という気持ちに孝之も賛成
してくれて、ふたりでアテネへ行くことにしたのだ。
 私は特に問題もなく仕事の有給休暇を取ることが出来たので苦労はなかったのだが、孝
之は大変だった。
 ちょうど大きなプロジェクトが立ち上がりはじめたところで、毎日のように会議の連続。
 必死の頼み込みで何とか休みはもらえたものの、課のみんなにはアテネのおみやげを要
求されたらしい。
 おまけに、出発の前日――つまり昨日だ――まで、毎日深夜の残業。
 さすがの私も、今度ばかりは同情せざるをえない。
 でも。
「遅れるわけには……いかないのよっ!」
 遅れがちな孝之の荷物もひったくってダッシュする。
 ダッシュダッシュダーーーーッシュッッッ!!!
 その勢いに押されてか、周りの人は快く私たちに道を譲ってくれた。
 やっぱりこういうときは、日頃の行いがいいと得よねっ!



「……水月、女子100メートル走に出場したら、メダルも夢じゃないかもな」
 孝之のその呟きは、もちろん水月の耳に届くはずもなく。
 あきらめたように溜息をひとつつくと、孝之も水月の後を追うようにダッシュを開始し
た。



…………。……………………。
 結局、ダッシュの甲斐あって、何とかふたりはアテネ行きの便に間に合った。



 飛行機による長時間の旅を経て、水月と孝之はアテネの地に降り立った。
 降り注ぐ太陽の光は、日本とアテネではかなり違うように感じられた。
「うーん、もしかして日本より暑くない?」
「もしかしなくても暑いぞ…」
 孝之はすでにダウン寸前のボクサーのようにフラフラしている。
「ほら、シャキっとしなさい。だいたいアンタ、機内でぐっすり寝てたじゃない」
「それはそうだが、だからといってこの暑さに耐えられるかどうかは別物だ」
「いちいちうるさいわね。さあ、まずはホテルにチェックインしましょう」
 ぶつぶつとうるさい孝之は相手にせずに、水月はさっさと歩いて行く。
 ここでもあきらめたように溜息をつくと、孝之は水月の後に着いていった。



…………。……………………。
 結局、ホテルに着いたのは21時を少しまわった頃だった。



 ようやく部屋に辿り着いて、水月はベッドに倒れ込んだ。
「つ、疲れたあ…」
「…………」
 孝之はというと、水月以上に疲れきっていて声も出ないようだ。
「い、いやぁ、まさか道を間違えるなんてね……」
「…………」
 孝之の返事は、ない。
「ちょっと、さっきから黙ってるけど……怒ってるの?」
「……いや、ただ疲れてるだけ。むしろ、水月にまかせっきりにしてた俺が悪いよ」
 いつになく殊勝な孝之の言葉に水月は驚き、同時になんかひどく悪いことをして
しまったような気になってきた。
「……えっと! 孝之、喉乾いてるよね。飲み物用意してあげるよ」
 水月は元気を出して立ち上がると、ベッドの脇にある冷蔵庫からペットボトル入りの
水を取り出した。
「うーん、よくわかんないから水でいいか…」
 冷蔵庫の中にはいろいろな飲み物が入っていたが、ラベルが日本語で書かれて
いないのでさっぱりわからない。
 無難なところで『水』を選ぶのは妥当な判断だろう。
「はい、孝之」
 しっかり冷やされているペットボトルを孝之に渡し、水月も同じ種類の物を手に取って
キャップを開ける。
 ごくっごくっごくっ……。
「…っはぁ、おいしい…」
「ああ、身体中に染み込んでいくのがわかるって感じだな」
 思いもよらず水がおいしかったおかげか、孝之も少し元気を取り戻したようだ。
 ふと時計を見た孝之は、あっ、という顔をした。
「そうだ水月。準決勝はどうなったんだ?」
 ……あー!
 孝之に言われるまで気が付かなかった。
 もう『女子100メートル自由形』の準決勝は終わっているころだ。



 スケジュールの都合で予選に間にあわないことはわかっていたが、準決勝には余裕で
見に行ける……はずだった。
 しかし、飛行機で空港に着いたところまでは順調だったのだが、そこからホテルまでの
道程で事件は起こった。



 道を、間違えたのだ。



 水月はしっかりしているようで、はじめての海外ということで緊張していた。
 孝之は疲れきっていて、水月の後に着いていくだけだった。
 ふたつの悪い偶然が重なり、気が付いたときにはオリンピックの会場とは反対の方角に
かなり進んでしまっていた。
 間違いに気づいたときは、時すでに遅し。
 やっとの思いで、つい先ほどホテルに到着したというわけだった。
 当然、オリンピックの結果など調べている余裕はなかった。



「えーとテレビでやってるかな……」
 水月はテレビのリモコンで電源を入れ、次々にチャンネルを変えていく。
 当たり前のようだが日本語のニュース番組はないので、画像を見て判断する。
「あ! これかな?」
 何度かチャンネルを変えていると、水泳の画面が映った。ちょうど女子100メートルの
結果が放送されているようで、順位表がテレビ画面に表示された。
「あ……」
「お、茜ちゃんトップで準決勝通過してるじゃん!やったな、水月!!」
「うん……」
「どうか、したのか」
 茜がトップで準決勝を通過しているのに、水月の表情は晴れない。
 それはタイムのせいだった。
 2位の選手とのタイム差の事じゃない。茜自身のベストタイムから見ると、かなり悪い
タイムだったのだ。
「そう言われてみるとそうかもしれないが、トップなんだからそんなに悲観的になることは
ないんじゃないか」
 孝之の言葉にも一理ある。
 しかし。不安は拭い切れない。
 それは、かつて水泳選手だった水月だから、感じることなのかもしれなかった。
「ちょっと散歩、してくる」
「……俺も行く」
 理由は何も聞かずに、孝之は立ち上がった。
「うん」
 水月はうれしそうに頷いて、ゆっくりと歩き出した。



 エレベーターで地上に降りて、中庭に向かって歩いて行く。
 中庭には大きい人工の池があり、水月は池のそばまで近づいた。
 池の水面には、ぽっかりと丸い月。それはゆらゆらと揺れ動き、まるで心の不安定さを
示しているかのようだった。
「私、不安なときはよくこうやって月を見てた。水面に映る月を」
 ぼそりと独り言を話すかのように、水月は語りだした。
「明鏡止水っていうのかな。こうやって揺れる月を見ていると、だんだんと心が静かに、
透き通っていくような気持ちになるの。夜のプール、誰もいない静かなプールでぼんやり
月を見ていたっけ……」
 それきり、水月は無言で月を見つめる。
 孝之もそれに習うように月を見つめていた。
 その光景は、まるで神さまに祈りをささげるかのように。
 静かに、静かに、ふたりは月を見つめていた。



 茜、明日は思いっきり泳ぎなさい。



 水月は、心の中でそっと呟いた。



あとがき



PCゲーム「君が望む永遠」のSSです。
ヒロインの速瀬水月の聖誕祭後夜祭用&水橋かおりさん聖誕記念も兼ねてます。



実はこのお話、もうちょっとだけ続きます(笑)。
この後の「茜オリンピック決勝編(仮)」と「オリンピックの後(仮)」の2場面分は少なくとも
書きたいと思います。
なんだか、予定より長くなってきました。
できるだけ早く、続きを書きたいですね。
それでは、また次の作品で。



��004年8月28日 水橋かおりさんのお誕生日♪



2004/08/27

「決心」(君が望む永遠)



 空はとてもきれいな青色。雲はひとつもなく、済みきっていた。
「今日は洗濯物がよく乾きそうだわ」
 洗ったばかりの洗濯物を丁寧に干しながら、水月は呟いた。
 天気がいいからだろうか。その声はとても弾んでいた。
「よしっ、これでラストね」
 最後の洗濯物を干し終えた水月は、額ににじんだ汗を手でぬぐった。
 まだ夏と言うには早い時期だが、気温はすでに夏そのもの。
 プールで思う存分泳ぎたいな…と思うのは、ごく自然な考えだと言える。



 でも、たとえプールに行っても、昔のように泳ぐことはもう、ないんだ。



 そう考えると、少し寂しい気持ちになる。
「でも、これは私が選んだことだから」
 しっかりとした口調で自分に言い聞かせるように、水月は呟いた。
「さってと! 買い物に行こうかな」
 少し沈んだ気分を打ち消すかのように、水月は鏡に向かって自分のトレードマークとも
いえるポニーテールを結い直した。



 じりじりじり。
 そんな音が聞こえそうな陽射しの中を、両手いっぱいに荷物を持って歩く。
「あ、つぅ~……」
 太陽で熱せられた地面からは、ゆらゆらと陽炎が立ち上っている。
 途中、喫茶店で涼んでいこうかと思う誘惑を振り切って、水月はようやく自分の部屋に
辿り着いた。
「はー、汗でベトベトだよ。シャワーシャワーっと」
 部屋のエアコンのスイッチを入れて、水月はシャワーを浴びにバスルームに入った。



 数分後、茹だっていた頭も冷水シャワーのおかげですっきり。部屋もエアコンのおかげ
で快適な温度になっていてさわやか。
 バスタオル一枚を身に着けただけの水月は、冷蔵庫からキンキンに冷えた飲み物を取り
出して、ごくごくっと一息に飲み干した。
「あ~もうっ、さいっこう!」
 先ほどまでのぐったり感はどこへやら。すっかり元気を取り戻した水月は、買ってきた
荷物の整理を開始する。
 食料品を最優先で冷蔵庫へ片付けた後は、日用品をそれぞれの場所へ。
 あらかた片付けが終わって残ったのは、何種類あるだろうか、たくさんのスポーツ新聞
だった。
「思わず全種類買っちゃったよ。まあ、孝之も読みたいだろうし、いいよね?」
 適当にひとつ取ってみる。まず最初に飛び込んできた見出しには、こう書いてあった。
『涼宮、アテネオリンピック代表決定!!』
 別の新聞には、
『涼宮茜、金メダル確実か?』
 といったように、どの新聞も茜のことでいっぱいだった。
「すごいよね、ほんと……」
 中学の頃は結構やるかな? ってぐらいだったけど、白陵に入ってからも茜はずっと水
泳を続けていたらしい。その努力もあって、ぐんぐん実力をつけて、白陵卒業と同時にア
メリカにスポーツ留学。
 日本とは比べ物にならないくらいの良い環境、良い指導者に恵まれて、さらにレベルアッ
プ。
 ここ数年、いろいろな国際大会に出場しては良い成績を納め、今回晴れて、アテネオリ
ンピックの代表に選ばれたのだ。
「それも私とおんなじ、100メートルの自由型だもんなあ」
 私が目標にしていたオリンピック。そして、果たせなかった夢……。



 私の代わりに、茜が夢をかなえてくれる。



 そう考えてしまうのは私の自分勝手な思い込みなのかもしれないけど、茜にはがんばっ
てほしいと思う。
 ひとつひとつの新聞を、時間をかけて丁寧に読んでいく。
 新聞に写っている写真の茜は、あの頃よりも凛々しさが増して、可愛さが増して、とて
も素敵だった。



 もう、何年茜に会っていないだろう?



 私から会いに行く勇気は持てなくて、今日までずるずると来てしまっている。
 時間は、痛みや悲しみを癒してくれるのかもしれないけど、最後の1歩は自分で踏み出
さないとどうにもならない。こればっかりは誰かに背中を押してもらうわけにはいかない
から。
 熱心に新聞の記事を読んでいると、ふとある記事に目が止まった。



「……あ……あかねぇ……」



 ぽたっ
 新聞の上に水滴が落ちた。
 それは、水月の目からこぼれ落ちた涙の滴だった。



『――私に水泳のすばらしさを教えてくれた先輩がいたんです。
私は、その人に追いつこうと、追い越そうとずっと努力してきました。
今回の結果はそのおかげだと思っています。
今でもその先輩は私の人生の目標です。
たぶん私は、今でもその人の背中を追いかけて、泳いでいるんだと思います……』



 孝之が帰ってきた。
 孝之も新聞を探してあちこちまわったみたいだったけど、やはり手に入らなかったよう
だ。
 私が買ってきた新聞を読むと、孝之も目を潤ませていた。
「そうだよ、水月――これ……」
 そう言うと孝之は突然、手に持っていた紙袋を私に向かって放り投げた。
「え?……なに……?」
 困惑しながら、私は受け取った紙袋を開いてみた。中には1冊の絵本が入っていた。



『ほんとうのたからもの』



 それが絵本のタイトルだった。そして、隅のほうに書かれていた作者の名前は、



『むらかみ はるか』



 ……はるか? …………はるか…………遙!?
「これ……もしかして」
「……ああ、多分」
 頷く孝之。私はもう1度表紙に目を落とす。
 遙が、描いた絵本だ。おそらく、たぶん。
 茜とも会っていなかったように、遙ともあれ以来1度も会ったことはなかった。
 お互いの気持ちに整理がつくまで。
 そんなきれいな理由ならまだよかった。
 私は、ただ遙に会うのが怖かっただけだ。
 病院であんな別れ方をしたから、なんてのは都合のいい言い訳にすぎない。
 遙ともう1度向き合うのが、私は怖かっただけなんだ……。
「そっか、遙……ちゃんと夢、かなえたんだ……」



 私は意を決して、絵本を開いた。



…………。…………………。



 ぽたっ
 絵本の上に水滴が落ちた。
 それは、私の目からこぼれ落ちた大粒の涙だった。



「孝之、私行くよ」
「行くって、どこに?」
「アテネ。アテネに行って、茜の応援をする。そして、茜と遙に会う」
 そう、私は決心した。
 私はアテネに行く。
 私は、遙と茜に会いに行く。



あとがき



PCゲーム「君が望む永遠」のSSです。
ヒロインの速瀬水月の聖誕祭用です。



実はこのお話、まだ続きます。
この後の「茜オリンピック編(仮)」と「オリンピックの後(仮)」の2場面分は
少なくとも書きたいと思います。
できれば28日に続きを発表したいところではありますが、さてどうなりますやら。
それでは、また次の作品で。



��004年8月27日 速瀬水月さんのお誕生日♪



2004/07/07

「那波の夏」(水月)



 水面にぼんやりと映っているのは丸い月。そう、満月だった。
 空を見上げると雲はなく、星がたくさん輝き、月はくっきりと丸い。
 しかし水面の月は、ちょっとしたそよ風にさえ揺らいでしまう。



 そんな不安定さは、まるで、人の心のようだ、と私は思った。



 ちゅんちゅんとさえずる小鳥たちの鳴き声、カーテンの隙間から差し込んでくる太陽の
光。
「朝……か」
 気が付けば、朝だった。
 カーテンを開けると、あざやかな入道雲が見えた。
 7月になったばかりだというのに、季節はすっかり夏。
 太陽がまぶしくて、日差しが強くて、風が心地よくて、星がきれいな、夏。
 今年もまたこの季節がやってきた。



「あ、牧野さーん」
 透矢くんの家に向って歩いていると、後ろの方から私を呼ぶ声が聞こえた。
 彼女は小走りで私のそばまで来ると、にっこりと笑った。
「おはよう、花梨ちゃん。今日もいいお天気だねー」
「おはよ。天気がいいのはいいけど、暑すぎよね~」
 花梨ちゃんは胸元に手で風を送り込みながら答える。
 チラチラ見える胸元。覗くつもりはなかったんだけど、ふと見えてしまった。
 ……むー。思わず渋面になってしまう私。
 そんな私の様子に気がついたのか。花梨ちゃんが私の顔を覗きこんで、
「どうかしたの?」
 と尋ねてきた。
「うん。……花梨ちゃんの胸は順調に育ってるなあ、と思って。私は……もうダメなのか
なあ」
 むにゅっ、と私は自分の胸を触ってみる。……むー。
「あはは……。順調なのかはさておき、牧野さんだって小さいわけじゃないでしょ?」
 じーっと私の胸を見ながら花梨ちゃんが言う。
「でも、花梨ちゃんには負けてると思う……」
 しょんぼりする私を見て、花梨ちゃんは急にいいことを思いついたような顔をした。
「ん? どうしたの、花梨ちゃん。……なんかすごく嬉しそうなんだけど」
 それに、そのわきわきと動かしている手がすごーく気になるんですけど。
「いやあ、よく言うじゃない。胸は揉まれるとおっきくなるって」
 じりじりと近づく花梨ちゃん。同じように、じりじり後ずさる私。
「どうして離れるのかなー? 痛くしないからさぁ……」
 そんな事言われても、困るよ。というわけで。
「じゃ、じゃあ私は先に行くね!」
 と言うが早いか、私は花梨ちゃんに背を向けてダッシュ!!
「あ、待てー!」
 同じく、私を追いかけてダッシュする花梨ちゃん。
 朝から熾烈な逃亡劇が幕を開けたのだった……。



 ガラガラガラガラ
「お、おはようございま~す……」
「暑い暑い暑いーーーー!!」
 玄関の扉が開く音。
「おはようございます。那波さん、花梨さん」
 しばらくすると、雪ちゃんがいつもの笑顔を携えて玄関まで来てくれた。
 ここは透矢くんの家の玄関。雪ちゃんは透矢くんの家のメイドさんだ。
 雪ちゃんは可愛くて、きれいで、お料理が上手で……尚且つ、胸は花梨ちゃんよりも大
きい。……むー。
「あら、どうかされましたか。那波さん?」
 雪ちゃんが私たちを見て、不思議そうな顔をする。
「う、ううん。なんでもないよー」
 あわてて手を振って、大丈夫さをアピールする私。
「……でも、おふたりともすごくお疲れのようですけど。息も上がってらっしゃるようで
すし。それに、花梨さんは…」
 ふと隣を見ると、あれ、花梨ちゃんがいない。
「今しがた、台所の方まで歩いて行かれましたけど」
 ……え?
「うわっ、花梨? なんでこんなとこまで上がってきてるんだ?」
「あ、透矢おはよー。……ごくごくごく。ぷはーっ! いやね、ちょっと朝から疲れちゃっ
たから、お水でももらおうかなって」
 …………。
 台所のほうから、透矢くんと花梨ちゃんの話し声が聞こえてきた。
「あはは……。ごめんね、雪ちゃん」
 ぺこり、と私は雪ちゃんに頭を下げた。
「いえ、那波さんが謝ることではありませんよ。それより、那波さんもお水いかがですか?
幸い今日は、まだお時間の方も余裕があるようですから」
 時計を見ると、確かにいつもよりもまだまだ時間に余裕はある。私と花梨ちゃんが全速
力で透矢くんの家まで走ってきたためだ。
「そうだね。じゃあ、いただこうかな」
「はい。ではこちらへどうぞ」
 雪ちゃんはにっこりと笑って、台所まで案内してくれた。



 こくこくこくこく……こくん。
 雪ちゃんが出してくれたお茶を飲んで、私はようやく落ち着いた。
「それにしてもさー、牧野さんがいきなり逃げ出すから悪いのよ」
 すると、私がお茶を飲み終わるのを待っていたかのように、唐突に花梨ちゃんが喋りだ
した。
「だから、ついつい追っかけちゃってさー。まだ7月になったばっかなのに、何? この
暑さは。こんな暑さの中を追っかけっこしちゃったじゃない!」
 雪ちゃんが注いでくれた2杯目のお茶をごくごくごくーっと一気に飲み干しながら花梨
ちゃん。
「あ、あれはほら。花梨ちゃんが……その、怖かったから」
 おずおずと答える私。
「どうせ花梨がいたずらでもしようとしたんだろう?」
 透矢くんがそう言ってくれた。
「いたずらって人聞きが悪いわねー」
 まだ暑いのか、花梨ちゃんは胸元に手で風を送り込みながら答える。
「…げほっげほっ!」
 突然、透矢くんが咳き込んだ。ちなみに、透矢くんは花梨ちゃんの正面に座っていたり
する。
 …………。
 どうして咳き込んだのかはとりあえず置いておいて。
「だって」
 私は花梨ちゃんに反論する。
「だって、花梨ちゃんが私の胸を揉み揉みしようとするんだもん!」



 ぶはーーーっっ!!



 その瞬間、盛大に透矢くんは飲んでいたお茶を吹き出した。
「あらあら、大丈夫ですか」
 雪ちゃんが手際よく後始末を始めた。さすが雪ちゃん、メイドの鑑。
「なによー、いいじゃない。減るもんじゃないし」
 ぶーぶーと文句を言う花梨ちゃん。
「だって」
 思わず私は叫んでしまっていた。
「だって、どうせなら透矢くんに揉み揉みしてほしいんだもんっっ!!!」



 その瞬間、透矢くんは死にそうなまでにむせ返った。



 雪ちゃんは冷静に後始末をしてから、
「あら、透矢さん。ネクタイが曲がっていますよ?」



 ぐいいーー。



「あ、ちょっ……雪さん締まってる締まってるっ…」
 透矢くんはちょっと苦しそうだ。
「ダメよ雪。ほら、ネクタイが曲がってるよー」



 ぐぐぐいいいいーーーー。



「か、花梨。それ、ダメ……」
 透矢くんはちょっと、いやかなり苦しそうだ。
「ほら、そろそろ行くよー。じゃあ雪、お茶ありがとねー。牧野さんも行くよー」
 花梨ちゃんはネクタイごと透矢くんを引っ張っていった。
「あ、うーん。じゃあ雪ちゃん、お茶ごちそうさまでした。行ってきます」
「はい、行ってらっしゃいませ」
 ぺこり、と雪ちゃんは笑顔を絶やさぬまま、私たちを見送ってくれた。
 さすが雪ちゃん、メイドの鑑。
 私は雪ちゃんに手を振って、花梨ちゃんと透矢くんの後を追った。



 玄関を出ると、さっきよりも高くなった日差しが私たちを出迎えた。
「まだまだ暑くなりそうだねー」
「そうね。それじゃはりきって今日も行きましょうか!」
「その前に、ネクタイを引っ張るのをやめてもらえると助かるんだけど……」
 私たちの夏は、まだ始まったばかりだった。



おわり



あとがき





PCゲーム「水月」のSSです。
ヒロインの牧野那波の聖誕祭用です。
うーん、こんな内容でいいんでしょうかね?
書いてて楽しかったと言えば楽しかったんですけど(笑)。



それでは、また次の作品で。



��004年7月7日 牧野那波さんのお誕生日♪



2004/06/20

「雨とことりと虹の空」(D.C.~ダ・カーポ~)



 窓をそっと開けると、夜の空気が部屋の中に入り込んできた。
 ここ数日、昼間はとってもいいお天気で、思わず溜め息をついてしまいそうな青空。
 だけど、夜になると昼間の暑さはどこへ行ってしまったのか、6月という時期にふさわ
しいと思えるような、涼しく過ごしやすい風。
 と言っても、多少湿気をまとっている風なんだけどね。
 空を見上げると、残念ながら真っ暗。きれいな星空が見られるとよかったんだけど、そ
れはもう少し先のことになりそう。
「しかたないかな……。梅雨の真っ最中なんだもんね」
 思わず、そう呟いてしまう。
 そう、6月も中盤をすぎたこの時期は毎年の事ながら梅雨に突入している時期なんです。
 だから、私、白河ことりは自分の誕生日がいい天気だった思い出ってあんまりないんで
す。ほんと、しょうがないんですけど。
「それにしても……」
 窓の外、1本の木を見上げて。
「本当に桜、散っちゃったんだなあ……」
 緑色の葉っぱで彩られた桜の木をぼんやりと見ながら、そんなことを考えた。



 それは今年の春のこと。
 この初音島で、桜の花びらが散ってしまうという事件が起こった。
 ごく当たり前の出来事なんだけど、初音島では大事件だった。
 初音島は、どういった原因かはわからないけど、桜がいつでも咲きつづける島だったの
です。もちろん花は散るのですが、すぐまた新しい花びらが咲いて、いつの季節でも桜の
木は満開。
 春はもちろん、まぶしい太陽が降り注ぐ夏も、紅葉が目に鮮やかな秋も、透き通るよう
な真っ白な雪が降る冬も、いつでも桜は私たちとともにありました。
 そんな身近な桜が、これまたどういった原因かはわからないけど、散ったままになって
しまいました。
 他の土地では当たり前のことに戻っただけなのに、私にとっては大事件だった。
 見えないものが見えなくなる、っていう感じかな。
 不安で不安で仕方なかった私。
 そんな私を支えて、元気付けて、そして勇気をくれた人。
 そんな素敵な人がいたから、私はきっと大丈夫。



 一瞬、強い風が吹いて葉っぱが何枚か部屋に舞いこんで来た。今までだったらいやって
いうほどの桜の花びらが入ってきていたんだけど、そういう意味では楽になったかも。
「おそうじ、大変だったもんね~」
 私はそのときのことを思い出して、自然に顔が微笑んだ。
 開けたときと同じように、そっと窓を閉めて祈った。
「明日は、晴れるといいな……」
 明日は私の誕生日。ただ晴れて欲しい、そんなささやかな願いをこめて、私は祈った。



 ザー……
 窓の外は、さっきからひっきりなしに雨の音が聞こえてきている。
「あ~あ、やっぱり雨が降っちゃったな……」
 ゆうべの風が少し湿気があったからちょっと嫌な予感がしてたけど、案の定的中。
 気分が少し落ち込んでいるところに、コンコン、とドアをノックする音。
 どうぞ、と返事をすると、ドアを開けて入ってきたのは暦お姉ちゃんだった。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「ああ、実は突然さっき電話があってな、今から学園のほうに行かなければならなくなっ
てしまったんだ」
 ……え?
「それで、どうやら帰りは夜遅くなりそうなんだ」
「そう、なんだ。……お仕事なんだもん、しかたないよねっ。私のことは気にしなくてい
いから。お仕事がんばってきて、ねっ?」
 私はお姉ちゃんに心配させないために、もうしないと決めていた作り笑いの笑顔でそう
言った。
 そう、お姉ちゃんは悪くないんだから。せっかくのお誕生日、家族といっしょに過ごし
たかったけど、私がガマンすれば……すむんだから。
「そうか。……すまないな」
 暦お姉ちゃんは、本当にすまなさそうな表情で一言だけそう言った。
「それでは行ってくる。あ、そうそう……」
 出かける間際に、暦お姉ちゃんは何かを言いかけて固まった。
 ?
「どうかしたの、お姉ちゃん」
「……ん?ああ、なんでもない。じゃ、行ってきます」
 暦お姉ちゃんは、一瞬すごく楽しそうに笑って、家を出ていった。
 ???



 暦お姉ちゃんが出かけると、家の中はすっかり静かになった。
 聞こえるのは、私が立てる物音と雨の音だけ。



 ふいに、涙がこぼれそうになった。



 私は大急ぎで部屋に戻って、ベッドにダイビングした。
 …………。…………。
 私はゆっくり顔を上げて、ちょっとだけ濡れた枕をごしごしと拭いた。
 よし、もう大丈夫。
 そのとき、ピンポーンと玄関のインターホンが鳴る音が聞こえた。
 私はあわてて玄関まで行き、ドアの覗き窓からそっと相手を確認した。
「あ……」
 ガチャリとドアを開けると、入ってきたその人は、なんと朝倉くんだった。
「あ、朝倉くん? どうしたの、突然」
「あーその、ことり今日誕生日だろ? だから、えーと、一緒に過ごしたいな~と思って。
……あ、もしかして何か用事でもあるのか?」
「……ううん、用事なんてないよ。ないない」
 私は首をぶんぶん振って、そう答えた。
 朝倉くんが、朝倉くんが来てくれた。
 いやだ、なんか顔がにやけてきちゃうよぅ……。
「そっか。なら、ちょっと出かけようぜ」
 そう言って、私に向って手を差し出す朝倉くん。
「それは構わないですけど、一体どこに行くんですか。外は雨が降ってると思うんですが」
 朝倉くんは私の手を取ると、そっとドアを開けた。
 ……あれ、どうなってるの?
 ドアから見えた外の風景は、いつのまにか雨が上がっていて、お日様が出ていました。
「雨なら、もうとっくにやんでるよ。ことり、もしかして寝てたんじゃないのか?」
 にやにや笑って私の顔を覗きこむ朝倉くん。
 ……もしかして、私、ふてくされて寝ちゃってた?
 かああっと顔が真っ赤になる私。そんな私を見て、ますます朝倉くんは笑った。



「よし、到着~」
 朝倉くんに連れられて、私がやってきたのは桜公園。そして、その桜公園の中でも1番
お気に入りの場所、『枯れない桜』だった。
 と言っても、今は枯れてるわけだけど。
 二人寄り添って木にもたれかかると、朝倉くんが話し出した。
「まず最初にばらしちゃうけど、今朝、暦先生から電話がかかってきたんだ…」
 朝倉くんの話をまとめると、今日の朝突然出かけることになったお姉ちゃんは、朝倉く
んのうちに電話したそうだ。私の相手をするように、とだけ言い残して。
 そっか、お姉ちゃんの笑いはそういうことだったんだ……。
「もちろんことりの誕生日は知ってたわけだけど、突然の電話だったから急いでことりの
家に行かなきゃって思ってな。だから、その……」
 少しためらってから朝倉くんは



「プレゼント、まだ用意してないんだ」



 と言った。
 その顔があまりにも真剣で、思わず私は笑ってしまった。
「いいですよ。朝倉くんからは、もうプレゼントいただきましたから」
 そう、一緒にたいせつなひとと誕生日を過ごしたい。それに、お天気も晴れてくれた。
私にとっては、十分すぎるほどのプレゼントなんだから。
「ことりがそう言うのならいいんだが、でもなあ……」
 私は全然気にしてないんだけど、朝倉くんは不満そうな感じ。
 ……そうだ。
「じゃあ、プレゼント、いただいてもいいですか?」
「ああ、いいけど。何がいい?」
 私はそれには答えず、彼の首にそっと手を回して、唇を重ねた。
 …………。…………。
 この時間がずっと続けばいいと思うような、そんなキス。
 しばらく経ってから、そっと離れる。
「えへっ、いただいちゃいました♪」
 朝倉くんは優しく笑って、私の髪を撫でてくれた。
「ことり、誕生日おめでとう」
「どうもありがとうございます」
 お互いにこにこと笑い合う。
 ふと空を見上げると、雨上がりの空には七色の鮮やかな虹が出ていた。
「まるで、ことりのお祝いをしてくれているみたいだな」
「うんっ!」



おわり



あとがき





PCゲーム「D.C.」のSSです。
ヒロインの白河ことりの聖誕祭用です。
うーん、久しぶりすぎてなんだかうまく書けませんでした。
やっぱりゲームプレイからそろそろ2年ですから、いろいろと忘れてて(汗)。



それでは、また次の作品で。



��004年6月20日 白河ことりさんお誕生日♪



2004/05/30

「水無月の雨と雪」(水月)



 ざざーん、ざざーん。
 波の音。毎日のように聞いている波の音だが、決して同じものはないのだろう。
 でも、毎日聞いているから。



 僕は今、夢の中にいるんだって、わかっている。



 ふと、視線を感じて目をそちらのほうへ向けると、そこにはひとりの少女がいた。
「ナナミ様……じゃ、ない?」
 いつもの夢では、そこにいるのはナナミ様だ。
 黒くてまっすぐな長い髪が幻想的で、この世の物とは思えない美しさ。
 一目で心を奪われてしまったその姿。
 しかし、今日は違った。
 少し茶色がかった髪は肩の下ぐらいまでの長さ。キレイというよりは、可愛いといった
ほうがぴったりな雰囲気。
 そして、ナナミ様との決定的な違いは。



 その子は、僕を見つめて幸せそうに笑っていた……。



 ざー…………。
 雨の音。小さい頃から何度も何度も聞いているのに、どうしてか落ち着かない。
 理由はなんだったのか。覚えていれば少しは気が楽になるのかもしれないが、あいにく
家の間取りといったどうでもいいことは覚えていても、肝心なことは覚えていない。



 そう、僕、瀬能透矢は記憶喪失だったりする。



 ふと目が覚めたら今までの記憶がないなんてウソみたいな話だが、事実なんだからどう
しようもない。
 普通だったら記憶喪失なんてものは、いろいろと大変なんだろう。実際、いろいろと問
題はあるのだが、家での生活に関しては大丈夫だ。
 なぜならうちには、雪さんがいるのだから。



 こんこん。
 ドアをノックする音に続いて、ひとりの女性が僕の部屋に入って来た。そして、僕の目
の前まで来て深々とお辞儀する。
「おはようございます、透矢さん。今日は……」
 その人は窓の側まで行って、カーテンを開ける。
 ざー…………。
 雨の音。
「……あいにくの空模様ですけど、今日も1日がんばってくださいね」
 にっこりと笑顔でそう言ってくれたのが、雪さんだ。



 雪さん。名を、琴乃宮雪と言う。
 小さい頃にうちに引き取られてから、ずっと一緒に暮らしている。
 そして、今は僕専属のメイドさんということになっている。
 たとえどんな理由だろうと、雪さんがそばにいてくれるなら何も問題はないと思えるほ
ど、雪さんは優秀で素敵で可愛くて、とにかく素晴らしい人だ。



「ナナミ様、ですか?」
 ほかほかの湯気がのぼるごはんの茶わんを手渡してくれた雪さんは、僕の質問にきょと
んとした表情を浮かべた。
「うん。雪さんはそういうのに詳しいのかなって。以前、父さんの書斎でいろいろお話し
てくれたからさ」
 雪さんが作ってくれた朝食を食べながら、ナナミ様について雪さんに聞いてみた。
「……申し訳ありません。あいにくナナミ様の伝承に関しては、雪も町の人たちと同じ程
度の知識しかないんです」
 雪さんは見るからにすまなさそうに答えてくれた。
「あ、いや、別に雪さんが悪いわけじゃないんだから気にしないでよ。ただ、今朝の夢の
内容がちょっと気になっただけだから」
「夢……ナナミ様の夢をご覧になったんですか?」
 小首を傾げて雪さんが聞いてくる。
「あ、そうじゃないんだけど……なんていうか、ナナミ様っぽい人が出てきたんだ」
 雪さんが入れてくれた食後のお茶を飲みながら、今朝見た夢のことを振り返ってみる。
 いつもの展開なら、あの場面では間違いなくナナミ様が出てくるはずなのに、今日に限っ
ては違っていた。
 たかが夢なんだから気にすることでもないとは思うけど、なんとなく気になる。
 だから、もしかして僕が知ってるナナミ様とは違ったナナミ様のイメージがあるのかな
と思ったんだけど……。
 窓の外は雨。ざーざーと降る雨の音だけの、食後のお茶の時間は静かに過ぎてゆく。
 ごくり、と最後の一口を飲み干して僕は席を立つ。
「ごちそうさまでした。今日もおいしかったよ、雪さん」
「ありがとうございます。透矢さんにそう言って頂けて、雪は幸せです」
 毎朝繰り返されているやり取り。
 お互い顔を見合わせて、笑い合う。
 できるなら、この幸せな時間がずっと続きますように。



「ナナミ様のこと?うーん、私はあんまり詳しくないなあ」
 学園に着いてから隣の席の和泉ちゃんにナナミ様のことを聞いてみると、そんな返事が
返ってきた。
「ごめんね、お役に立てなくて。でもどうしてナナミ様のことを知りたいの?」
「うん、実はね……」
「うんうん」
「…………ナイショ」
「「ええ~~」」
 自分から振った話題だったけど、まさか夢に出てくる女の子が気になるから、なんて言
えないので、ナイショにさせてもらったら案の定、非難の声が。
 って、あれ、ふたりぶん?
「ナイショってどういうことかなー?幼なじみの私には隠し事なんてしないよねー」
「あ、花梨ちゃん。おはよう」
「おはよう和泉。今日もいい天気ねー、ってそんなことよりも。透矢くんは何か私に言う
事があるよねー」
 突然現れた花梨にびっくりしつつも、沈黙はさらによくない状況を引き起こすと敏感に
感じ取った僕は、しどろもどろになりながらも返事をする。
「か、花梨おはよう。今日は早いね。……えっと、今日はあまりいい天気じゃないような
気がす」
 ぐいいーー
「いたたたた!!」
 まだ喋ってる途中なのに……。
「か、花梨ちゃん!?透矢くんのほっぺたが伸びちゃうよぉ……」
「言いたいことはそれだけかなー、透矢くん?」
 にこにこと満面に笑みを浮かべながら、僕のほっぺたを引っ張っているのは、幼なじみ
の宮代花梨。……ご覧の通りの性格の女の子だ。
 そして花梨に引っ張られている僕のほっぺを心配してくれているのが、新城和泉ちゃん。
クラスメイトだ。
 このままではナイショのことを白状するまで、花梨は僕のほっぺを離さないだろう。
 しかたなく降参しようとしたその時、
 キーンコーンカーンコーン
 チャイムの音と共に、担任の先生が教室に入ってきた。
「ちっ、命拾いしたわね」
 花梨はそんな悪役のような捨てゼリフを残して自分の席へと戻っていった。
 ようやく解放されたほっぺをさすりながら安堵の溜息をついた僕を見て、和泉ちゃんは
安心したような感じでにこにこと笑っていた。



「さて、早速だが転校生を紹介する」
 今日のホームルームは担任の先生のそんな突然な一言で始まった。
 当然、先生以外の誰も知らされてないわけで、教室のあちこちからいろんな声があがる。
「ほらほら静かに。うるさくすると進行できないだろう」
 先生がみんなを静かにさせるが、それもあまり効果がない。そりゃ、転校生なんて一大
イベントは気にならないほうがおかしいだろう。
「……よし、そろそろいいか。それでは入って来なさい」
 みんなが静かになった頃合を見計らって、ようやく先生は教室の外に声をかけた。
 その声に従って、教室の前の扉がすっと開いた。
 そして、ひとりの女の子が静かに入ってきた。
 その子をはじめて見た瞬間、僕は呼吸を忘れていた。
 少し茶色がかった髪は肩の下ぐらいまでの長さ。キレイというよりは、可愛いといった
ほうがぴったりな雰囲気。



 そう、間違いなく、今朝の夢で見た女の子だった……。



「ん、瀬能。どうかしたのか、急に立ち上がって」
「…………え?」
 先生に言われて、僕はいつの間にか自分が立ち上がっていることに気が付いた。
 みんなの視線が集まっている。そして、あの子の視線も僕に向けられている。
 ……途端に、恥ずかしくなった。そのせいだろうか、
「あ、す、すいません。夢に出てきた女の子にそっくりだったものですから…」
 と、思わず口が滑ってしまった。



 数秒後、教室は大爆笑の渦に包まれた……。



「おいおい瀬能~、それは口説き文句か? やるねー」
「瀬能くんたら、花梨ちゃんや新城さん、それに牧野さんもいるのに、まだ他の子に声を
かけようっていうの……」
 みんな言いたい放題言っている、くそぅ……。
「みんな静かにしなさい。ほら、瀬能も座りなさい。そういうのは休み時間にな」
 先生、フォローになってません……。
 先生はとにかく彼女の紹介を進めることにしたらしく、黒板に彼女の名前を書いてゆく。
「では、自己紹介してください」
 彼女は、はい、と返事をして教壇に立った。
「みなさん、はじめまして。皐月雨乃(さつき あめの)と言います。父の都合でこちら
の学園に転校して来ました。何の取り柄もありませんが、これからよろしくお願いします」
 と言って、ぺこりとお辞儀する彼女は本当に可愛らしくて、男子生徒はもちろん、女子
生徒からも大きな拍手で迎えられた。



 キーンコーンカーンコーン
 午前中の授業の終了を告げるチャイムが鳴り響き、教室はみんなの楽しい笑い声で包ま
れる。誰もが待ち望んでいる昼休みの時間だ。
「透矢、お昼一緒に食べよ?」
「あ、あの透矢くん。私もご一緒していいかな?」
 いつものように、花梨と和泉ちゃんがお弁当を持ってやってくる。もちろんオッケーな
ので、僕は近くの机を集めて3人分の席を作った。そして、カバンの中からお弁当を取り
出す。雪さんのお手製のお弁当だ。
「さすが、雪のお弁当はいつ見てもおいしそうねー」
「本当、透矢くんが羨ましいな……」
「うわー、ほんとおいしそう~」
 花梨と和泉ちゃんの物欲しそうな視線。それだけならいつもの風景なんだけど、今日は
もうひとり増えていた。
「さ、皐月さん?」
 突然のことに声が上擦っているのが自分でもわかる。
「うん、ごめんね。あまりにもおいしそうなお弁当だったから見とれちゃった」
 そう言って笑う彼女は、やはり夢で見たように幸せそうだった。
「あ、皐月さん。よかったら一緒にお昼食べない? 和泉も透矢もいいよね」
 僕には反対する理由はない。和泉ちゃんもにこにこと笑って頷いている。で、肝心の皐
月さんはというと、
「どうもありがとう。じゃ、ご一緒させていただきます」
 にっこりと笑う彼女は本当に可愛かった。
「……透矢、見とれるのもいいけど、皐月さんの席を用意してからにしてよねー」
 花梨の冷やかす声を聞いて、あわてて席を用意する僕だった……。



「ねえ透矢、その卵焼きと、私の卵焼き交換しよ?」
 花梨が僕のお弁当をのぞきこみながらお願いする。
「卵焼きと卵焼きを交換してもしかたがないと思うんだけど……」
 苦笑しながらそう言うと、
「何言ってるのよ。雪が作った卵焼きよ? 意味があるに決まってるじゃない!」
 いや、そんなに力説されても困るんだけどね……。
 やれやれと思いながら、卵焼きを口に運ぶ。
 うん、さすが雪さんが作った卵焼きだ。おいしいおいしい。
 隣では花梨が悲鳴をあげていたりするが、気にせず食事を続ける。
「あの、瀬能君のお弁当って誰が作ってるの?そんなにお料理が上手な人なら、いろいろ
教えて欲しいなあ」
 食事を続けていると、こちらの様子をうかがっていたのか、皐月さんが話しかけてきた。
「皐月さんって、自分で料理作ったりするの?」
 何気なく聞いてみると、
「うん、うちの事情でね。だから料理が好きってわけじゃないんだけど、少なくとも人並
みの腕前は持っているつもりなんだ~」
 えへへ、という感じで皐月さんはうれしそうに微笑む。
「ん? 人並みの腕前を持っているのに、どうして料理を習いたいわけ?」
 いつの間に気を取り直したのか、すでにお弁当をたいらげた花梨が皐月さんに当然の質
問を投げかけた。
 その返事は、いかにも皐月さんらしい答えだった。まだ会ったばかりなのにどうしてそ
う思ったのかはわからないけど、すごく彼女らしいと思えたのだ。
 皐月さん曰く、
「だって、好きな人にお料理を作ってあげるとしたら、やっぱりおいしいほうがいいじゃ
ない♪」



 朝から降り続いている雨は多少は小降りになったものの、まだまだ6月の雨の勢力は衰
えそうもない。
「ふーん、じゃあ瀬能君の家には、瀬能君とお手伝いの雪さんのふたりだけなんだ」
 そんな雨の中を、僕は皐月さんと一緒に歩いている。
「ひとつ屋根の下に、若い男女がふたりきり……。これは花梨ちゃんや和泉ちゃんが心配
するのも無理ないかな」
 結局、僕は皐月さんのお願いを断りきれなかったのだ。思い立ったが吉日、ということ
わざが大好きなのか、皐月さんは今日から早速教わりたい、と言った。とはいえ、僕がで
きるのは皐月さんを雪さんに会わせる事だけで、その後のことは雪さんにまかせるしかな
い。
 もし雪さんが嫌がるなら、僕も強制できないから……。
「でも瀬能君なら大丈夫な感じがするよね。……なんとなくだけど」
 楽しそうにおしゃべりを続ける皐月さん。なんだか好き勝手なことを言われているよう
な気がするけど、不思議と嫌な感じはしなかった。
「大丈夫って何が大丈夫なの?」
「んー? だから、なんとなく。瀬能君は相手が嫌がることはしない人だと思うから」
 そんなことを話しながら歩いていると、僕の家が見えて来た。
「ただいまー」
 玄関の扉を開けて、家の中に呼びかける。すると、いつものように雪さんが出迎えてく
れた。
「おかえりなさいませ、透矢さん。……あら、そちらの方は?」
 僕の後ろにいる皐月さんに気づいた雪さんは、ちょっと警戒した表情だ。
「ああ、クラスメイトの皐月さん。今日、転校してきたんだ。ちょっと話があるっていう
から、うちに来てもらったんだ。雪さん、悪いけどお茶を用意してくれないかな」
 雪さんは僕の説明に「わかりました」と頷いてくれた。
 皐月さんを居間に案内しようとしたら、くいっと服の裾を引っ張られた。
「…なに?」
 皐月さんは僕の耳に顔を近づけて、小声で呟いた。
「雪さんって、すっごくきれいな人だね。……瀬能君、よくガマンしてるね?」
「…………………………」
 僕は無言で居間へ歩いて行く。
 僕のそんな様子を見て、楽しそうに皐月さんは笑った。



「え、雪にお料理をですか?」
「うん、ぜひ習いたいみたいなんだ。……どうかな」
 突然の話に目をぱちぱちさせる雪さん。うわあ、こんな雪さんも可愛いなあ…。
「時間があるときだけでいいんです。お願いできませんか」
 必死な様子の皐月さん。
「雪は……透矢さんがよろしければ、お教えするのにさしつかえはありません」
「ほんとですかっ!」
「はい。……よろしいですか、透矢さん」
 と言って、僕を見つめる雪さん。そして、期待に満ちた目で僕を見つめる皐月さん。
「ああ、構わないよ」
「やったー!!」
 その瞬間、皐月さんは雪さんに抱きついていた。
 雪さんは最初はびっくりした顔だったが、次第に皐月さんを見つめる目が柔らかくなっ
ていった。そんな雪さんの表情は今までに見たことがないような気がして、ちょっとだけ
皐月さんに嫉妬した。



「じゃあ、毎朝のように雨乃は透矢の家に行ってるの?」
「正確には、毎朝と毎晩だね。雨ちゃんすごく熱心なんだ。どんなに忙しい時でも来るん
だよ」
 その日、部活の朝練に行くという花梨に付き合って、いつもより早く家を出た。相変わ
らず降り続く6月の雨の中、花梨とふたりで歩いて行く。
 皐月さんが転校してきてからあっという間に2週間が過ぎた。僕らはずっと前からの親
友のように仲良くなっていた。
「だからかな。最近の雨乃のお弁当、なんだか雪のお弁当の味付けに似てきたような感じ
がするんだもん」
 どうして花梨が雨ちゃんのお弁当の味付けを知っているんだろう……。
「雨乃ったら、最近ブロックが厳しくてなかなかお弁当食べさせてくれないのよね」
 人のお弁当を取るのはよくないと思うな。特に僕のお弁当の卵焼きは……。
「あの卵焼きだけはまだまだ雪の味付けには及ばないみたいだけどね。あ、そうそう卵焼
きと言えばさ、このごろ牧野さん来ないね」
 牧野那波ちゃん。クラスメイトだ。黒くてまっすぐな長い髪は本当に見とれてしまうほ
どキレイで、いつも花梨に冷やかされている。
 ちょうど雨ちゃんが転校してくる少し前から、牧野さんは体調を崩したとかで休んでい
るのだ。
「和泉ちゃんによると、だいぶ体調は良くなってるみたいだけど……」
 どうも湿気がよくないのか、毎年のようにこの時期は休んでいる牧野さん。たぶん7月
になれば梅雨もあけてよくなると思うんだけど。
「でも、卵焼きで牧野さんを思い出すなんて、花梨らしいね」
「だって、牧野さんが卵焼きを食べている時の顔は本当に幸せそうなんだもん。ほっとく
と、それこそ卵焼きがいくつあっても足りないよねー」
 事実その通りなんだけど、それで思い出される牧野さんもなんだかな。
 ……………………………………
 ふっと、会話が途切れた。
 雨の音の他には、僕らの足音が聞こえるだけ。
「……あのさ、透矢はさ」
「うん?」
「…………雨乃のこと、どう思ってるの?」
「え?」
 突然の花梨の質問に、足が止まる。
 ざー…………。
 雨の音。
「前、言ってたよね。夢に出てきた女の子に似てるって」
 沈黙している僕に、花梨は静かに問い掛ける。
 その通り。雨ちゃんは、皐月雨乃は僕の夢に出てくる女の子にそっくりだ。
 はじめて彼女の夢を見た日だけではなく、その後も時々彼女は夢に出てくる。何かする
わけでもなく、ただ笑っているだけだが。
 そう言えば、その日以来ナナミ様の夢は全然見ていない。
 何か関係があるのだろうか……。
「わかった。質問を変えるわ。……雪と雨乃はどうなのよ?」
「雪さんと雨ちゃんは、別にどうって言われても。普通に仲良しだけど」
 花梨は僕をじとーっと見つめて、
「本当にそう思ってる?」
 と、溜息混じりに言った。
「いいわ。何も今決めなくちゃいけないわけじゃないし。でも」
 僕の前を歩いていた花梨は、くるっと振り向いて
「少しは考えておいたほうがいいんじゃない?」
 と言って、歩いていった。
 ざー…………。
 雨の音。
 花梨の足音が遠ざかって、僕はしばらくの間、その場から動けずにいた……。



「じゃあ、今日はこれぐらいにしましょうか」
「はい!」
 食堂からは、すでにお馴染みとなったふたりのやりとりが聞こえている。
 僕は部屋にいても特にすることがないので、こっそりと食堂の様子をのぞきに来ていた。
 気づかれないようにできるだけ注意しながらそっと顔を出してみると、こちらを見てい
た雪さんと目が合った。
「透矢さん。お茶でもお入れしましょうか?」
 にこにこと雪さんは笑顔だ。
「あはは…、お願いします」
 見つかってしまったことをごまかすために照れ笑いを浮かべながら、僕は食堂の椅子に
腰掛けた。
「あ、じゃあ私が透矢君にお茶入れてあげるよ。雪さんも座って待っててください」
「いえ、お客様にそのようなことは……。雨乃さんこそ座って待っていてください。お疲
れでしょう?」
 洗い物をしていた雨ちゃんの申し出を雪さんはやんわりと断った。
 そんなことない、と言いたげな雨ちゃんにそっと耳打ちする。
「雨ちゃん。雪さんの仕事だから、取らないであげてよ」
 その一言で納得してくれたのか、雨ちゃんは引き下がってくれた。



 雨ちゃんを家まで送ってから戻ってくると、21時を過ぎていた。出迎えてくれた雪さ
んは少し悲しそうな顔。
「ごめんね、雪さん。雨ちゃんとお話してたらちょっと遅くなっちゃった」
「いえ。……雪は、透矢さんが無事に戻って来てさえいただければ、それだけで十分幸せ
ですから」
 いつものやり取りなんだけど、今日はどうしてか、その言葉が寝るまで心の片隅に引っ
かかって仕方なかった。



 それから、また2週間ほど過ぎた。
 天気は相変わらず雨が多くて洗濯物の乾きにくい時期だが、気分が憂鬱になることはな
かった。
 花梨も雨ちゃんのお弁当に文句を言わなくなったことから考えても、雨ちゃんの料理の
腕前は確実に成長していっているのだろう。
 そして和泉ちゃんの話によると、牧野さんの体調もだんだんよくなっていて、7月には
学園に復帰できるのではないか、ということだった。
 そんな、7月を目前に控えた週末の日。
「おはよう、雪さん。……今日も雨だね~。雨降りだと洗濯物が乾かなくて大変じゃない
の?」
 朝食の準備をしている雪さんに挨拶しながら席につく。
「おはようございます、透矢さん。そうですね、確かに洗濯物は乾きにくいです」
 トントントンとリズミカルに包丁を扱いながら答える雪さん。
「でも、雪は雨ってそれほどイヤじゃありませんよ?」
「へえ、どうしてなの?」
「それは、雨は全てを覆い包み込んでくれる気がするからです。今日みたいなお天気の日
に、こうやって、腕を広げて雨の中で立ち尽くすんです」
 雪さんは両腕を広げて目を閉じる。
「そして雨に打たれていると、いろいろなことが流れて、流されて、きれいになれるよう
な気がするんです……」
 目を閉じて腕を広げてたたずんでいる雪さんは、なんだかいつもと違って見えて、まる
でどこか遠くにいってしまいそうな、近くにいるのに離れているような、そんな不安定な
感じがした。



「……え?」



 雪さんの驚いた声。気が付けば、僕は雪さんを抱きしめていた。
「ダメだよ、雪さん? そんなこと言っちゃダメだよ。僕はここにいるから。僕が雪さん
を包んであげるよ」
 ぎゅっ
「透矢さん……」
 雪さんの頬が赤く染まる。



「……僕が、雪ちゃんを、守るから」



 いつかどこかで口にしたそんな約束。
 忘れないように、僕はもう一度約束をして。
 雪さんの額にそっと口付けして、頭を優しく撫でた。



 7月。先週までの雨はどこへ行ったのやら、まぶしい陽射しが青い空に輝いている。
 7月になって、変わったことがふたつあった。
 ひとつめは、牧野さんが学園に復帰した。
 相変わらず僕のお弁当から卵焼きをおいしそうに食べている。もうすっかり体調はいい
みたいだ。
 そしてふたつめ。雨ちゃんが、いなくなった。
 お父さんの都合で突然転校が決まったらしい。
 別れる当日、雨ちゃんは僕にお弁当を作ってきてくれていた。そのお弁当はとてもおい
しかったんだけど、彼女の質問には困らされた。



「雪ちゃんのお弁当と、どっちがおいしい?」



 雨ちゃんは僕が困っている様子を見て、今までで1番楽しそうに笑った。
「また遊びに来るよ。この町、気に入っちゃったもん。花梨ちゃんも和泉ちゃんも雪ちゃ
んも、それに……透矢君もいるしね」
 そう言い残して、雨ちゃんは行った。
 はじめて会ったときから別れるときまで、楽しそうな笑顔が印象的な女の子だった。



 ガラガラガラガラ
「おはようございま~す」
「暑い暑い暑いー」
 玄関の扉が開く音。
「あ、那波ちゃんと……」
「花梨さん、ですね」
 毎朝繰り返されているやり取り。
「じゃあ、行ってきます。雪さん」
「はい、いってらっしゃいませ。透矢さん」
 お互い顔を見合わせて、笑い合う。
 できるなら、この幸せな時間がずっとずっと続きますように。



 おわり



あとがきのようなもの





みなさん、はじめまして。朝霧玲一と申します。
今回、はじめて同人誌というものに寄稿させていただいたわけですが、いかがでした
でしょうか?
発行時期が6月末~7月だろうと推測したことから、今回のネタが浮かんだわけですが。
しかし、出来上がってみれば雪さんの出番が少ないような……。
「水月」では1番好きなキャラは雪さんなのに、どうしてなんでしょうか。
どう考えてもオリジナルキャラに出番取られちゃったよね……。でもこの子がいないと、
この作品は全く意味がなくなってしまうので、みなさんに気に入っていただけると嬉しい
のですが。
あと、えちぃシーンも書きたかったんですが、ストーリーの展開上、入れられません
でした。
せっかくのチャンスだったので、少し心残りだったりします。
今回、お誘いいただきまして、どうもありがとうございました。あわさん。
そして、この作品を読んでいただいた方々、本当にありがとうございました~。



��004.5.30



2004/04/06

「花雪水月 -かせつすいげつ-」



第1回



 いつからだろうか。いつも僕の側に雪さんがいるようになったのは。



 ふわっと浮かんでいるような感覚。
 夢と現実の狭間があるとすれば、こんな感じなのだろうか。
 意識は目覚めたいと思っているのに、身体が起きてくれない。
 そんな感じ。
 窓の外が明るくなっているのが、感覚でわかる。
 目を瞑っているのに。
 早く起きないと、雪さんが来てしまうじゃないか。
 だけど、どんなに起きたいと思っても、果たして人は自分の意志で目覚めることができ
るのだろうか。
 外的要因や自然に目覚めたりするのはわかるけど、今の今まで、夢の中で起きたいと思っ
て起きたことなんて1度もないんだから。
 たとえば怖い夢を見ている時、大抵の人は早く目が覚めたら、と思うだろう。
 でも、できない。
 その怖いことが自分の身に降りかかる寸前で、ようやく目が覚めたりするものだ。
 だから、なるべく早く起きたい。
 いつも起こしに来てくれる雪さんには申しわけないけど、彼女が来るよりも早く起きた
いと思ってしまうのだ。



ゆさゆさ。



 あ、身体が揺さぶられている。きっと雪さんだ。
 今日も雪さんに起こされちゃったな。
 そんなことを思いながら、僕は自分の意識が急速に目覚めようとしているのを感じてい
た。



「おはようございます、透矢さん」
 起きたばかりの僕の目に入ったのは、いつものメイド服に身を包んだ雪さんだった。



 雪さん。姓は琴乃宮、名は雪。
 小さい頃から、うちで一緒に暮らしている。
 僕の父さんが、両親のいない雪さんを引き取ったからだ。
 それ以来、雪さんは僕専属のメイドさん、ということになっている。
 1度、僕と同い年なんだから恩返しのためにメイドなんてしなくてもいいよ、と言った
ことがある。
 でも雪さんはにっこりと笑って、
「雪は、ここがいいんです」
 と言ったのだ……。



「おはよう、雪さん。今日も起こしてくれてありがとう」
 身体を起こしてから雪さんにいつもの挨拶をする。
「いえ、これが雪のお仕事ですから」
 雪さんはにこり、と笑って窓の側へ歩いて行く。
 雪さんがカララ…と窓を開くと、桜の花びらがふわりと1枚舞いこんで来た。
「もう、春なんですね」
 花びらを拾って、雪さんが呟く。
 もう4月になって数日が経っている。先週までは春には程遠いような気候だったが、こ
の数日ですっかりあたたかくなった。
 数日前までつぼみだった桜も花開き、窓の外はいつのまにかすっかり春の装いをまとっ
ていた。



「ごちそうさまでした」
 雪さんが作ってくれた朝食を残さず食べる。雪さんの料理は完璧で、尚且つ僕好みの味
付けになっているから、残したらバチが当たるというものだろう。
「はいどうぞ、透矢さん」
 雪さんが渡してくれた食後のお茶を受け取り、コクリと一口。
「今日もおいしかったよ、雪さん」
 食事の感想を伝えると、雪さんはいつもの笑顔で微笑んでくれた。
 チラリと壁に掛けられた時計を見ると、7時30分。……そろそろかな。
「そろそろですね」
 時計を見た僕の様子を見て、雪さんが呟く。それは……



ガラガラガラ~。



 玄関の扉が開く音。そして、
「おはようございま~す」
「おはようー。早くしないと遅刻するわよー」
 それは、2人の女の子がやってくる時間だった。
 僕は湯のみを置いて立ち上がると、玄関に歩いて行く。
「おはよう。那波ちゃんに、花梨。今日も早いね」
「何言ってるのよ。今日から新学期でしょ。新学期早々遅刻しないように、牧野さんと迎
えに来てあげたんじゃない。ねー?」
「そうだよ~。透矢くんはしっかりしているようで意外にお寝坊さんなんだから。雪ちゃ
んも毎朝大変でしょう?」
 花梨がいつものようにまくし立て、那波ちゃんが僕の後ろに付いていた雪さんに問い掛
ける。
 雪さんは……にこにこと笑っていた。
 あの、雪さん? ここはできれば否定して欲しいところなんだけど。
「そりゃどうも。じゃ、カバン持ってくるからちょっとだけ待ってて」
 花梨に返事をして、僕は自分の部屋にカバンを取りに行った。



「それじゃ雪さん、行ってきます」
「はい、いってらっしゃいませ」
 僕を送り出すために深々とお辞儀をする雪さん。いつもの光景なんだけど、慣れないも
のだなあ。
「雪ちゃん、また後で」
「またねー」
 那波ちゃんと花梨も雪さんに挨拶して、僕らは学校へ向けて歩き始めた。
 道の所々にある桜の木はどれも満開で、まさに春そのものの風景。自然と足取りも軽く
なるというものだ。
「今日はいいお天気だね~」
 嬉しそうにしながら那波ちゃんが呟く。
 牧野那波。僕の同級生。高校に入学してから知り合ったんだけど、今ではずっと昔から
の友だちのように仲良しになっている。
 黒くてさらさらの長い髪はとってもきれいで、近くによるとすごくいいにおいがする。
女の子の間では、羨望の的になっているようだ。
 いつもにこにこと笑っていて、彼女と知り合いになれて本当によかったと思っている。
 その笑顔は、みんなの気持ちも幸せにしてくれる笑顔なんだから。
「そうだねー。先月までの寒気はどこへやら、って感じよね。でも春らしくていいじゃな
い」
 元気良く、という表現がぴったりな歩き方で僕らの先頭を歩いて行く花梨。
 宮代花梨。実家が宮代神社で、時々巫女のようなことをしている。
 僕とは昔からの幼なじみ。だからなのか、彼女は僕には遠慮というものをしていないよ
うな気がする。それはそれでうれしかったりするのだが、もう少しだけ手加減をしてもら
えると尚よいのだけれど。
 見上げた空にはきれいな青空。まったく申し分のない天気だ。
「そろそろお花見の季節だね~」
 と呟くと、
「お花見、いいですね~」
 と答える可愛らしい声。
 声の方を振り向くと、マリアちゃんが大きな竹箒を持って、そこに立っていた。
 気が付くと、いつの間にか教会まで来てしまっていた。いつになくぼんやりと歩いてい
たから全然気が付かなかった。
「おはようマリアちゃん。朝のおそうじかな?」
「おはようございます、透矢さん。今日はとってもいいお天気ですから」
 箒を持ったまま、ぺこりと挨拶をするマリアちゃん。見ていてとっても気持ちのいい笑
顔だ。
「できればお天気じゃないときでもそうじしてくれると助かるんだけどねー」
「お、おねえちゃんっっ!」
 教会の窓からひょっこりと出ているツインテールの少女。マリアちゃんとそっくりの顔
のその女の子は、マリアちゃんの双子の姉、アリスだ。
「あの、違うんですよ?いつもおそうじはしてるんですけど…あの…」
 顔を真っ赤にしてあたふたと弁解するマリアちゃんは、なんだか可愛かった。
「お天気だから気持ちよくおそうじできるってことだよね?マリアちゃん」
「は、はい!そうですそうです」
 那波ちゃんの言葉にコクコクとすごい勢いで頷くマリアちゃんだった。
「じゃあ、アリスがそうじすればいいのにー」
「今日はマリアの当番なんだからいいのよっ!」
 花梨の言葉に激しく反論するアリス。このふたりはいつもこんな感じなので、ほってお
くと口げんか大会が勃発してしまうだろう。
「まあまあふたりとも。花梨、そろそろ行かないと遅刻しちゃうだろ」
「寝坊したキミに言われたくないけどね」
 ……矛先がこっちに向いたような気がした。
「まあいいわ。じゃ行きましょ。マリアちゃん、またねー」
 マリアちゃんだけに手を振りながら歩き出す花梨。
「またね。マリアちゃん、アリスちゃん」
 にこーと笑いながら那波ちゃん。
「それじゃあ、またね」
 アリスとマリアちゃんのふたりに手を振りながら、僕も歩き出した。
「はい。みなさんお気をつけて~」
「事故に会うんじゃないわよー」
 どっちがアリスのセリフで、どっちがマリアちゃんのセリフであるかは言うまでもない
だろう。
 先程よりも多少早足で、僕らは歩いた。
 せっかく家まで来てくれたふたりのためにも、新学期早々遅刻するわけにはいかなかっ
た。



 つづく。



2004/04/01

「雪さんのドキドキめざまし」(水月)



 ふわっと浮かんでいるような感覚。
 夢と現実の狭間がこんな感じなのだろうか。
 ゆうべは自分のベッドで眠ったのは覚えているし、実際に今眠っているという感覚もあ
る(眠っているのにどうしてわかる、と聞かれると困るけど)
 かといって、夢を見ているわけでもない。
 意識は目覚めかけているものの、身体が起きてくれない。
 そんな感じ。
 なんとか寝返りをうとうとしてもなかなかできなくて。
 たっぷり10分ほど時間をかけて、ようやく身体を横にすることが出来た。
 首をひねって枕元に置いてある時計を見る。
『6:10』。
 無機質なデジタル表示を見て、今日はいつもよりも早いなあと、のんびりした感想を持っ
た。
 せっかく早起きしたというのに、これじゃ何もすることができない。
 意識だけが起きていても、身体が起きてくれないんじゃ全く意味がない。
 どうしたものかと思っていると、すたすたと廊下を歩く音が聞こえて、そしてトントンと
ドアをノックする音が聞こえた。
「透矢さん。起きてらっしゃいますか?」
 控えめだがしっかりとした口調。雪さんだ。
 雪さんは、僕、瀬能透矢の専属のメイドさん、ということになっている。
 なんでもこなすすごい人で、いつもお世話になりっぱなしだ。
「透矢さん?……失礼します」
 僕の返事がなかったからだろう、雪さんはドアを開けて部屋に入ってきた。
 僕はといえば、返事をしたかったのは山々だが、声を出すことが出来ない状態だ。
 もしかして、これは『金縛り』という状態なのだろうか。
 今さらながらそう思った。
 部屋に入ってきた雪さんはベッドの傍らに立つと、
「おはようございます、透矢さん。そろそろ起きないと学校に遅刻してしまいますよ?」
 と言った。
 あれ?さっき見た時計は確か『6:10』だったはず。この時間ならあと1時間はゆっく
りしてても大丈夫なはずだけど。
 動けず声も出せない状態なので、時計の方に視線を動かすと、雪さんもつられてそっちを
見た。数秒間の間の後、
「どうやら時計が止まっているようですね」
 と言った。
 ………………あまりにもありがちな展開で、思わず苦笑した。
「では、起きてくださいますか?朝ご飯の準備も整っていますから」
 雪さんの言葉に従いたいのだが、やはり身体は言う事を聞いてくれない。
「……?お身体の具合でも悪いんですか」
 雪さんは僕の額に手を伸ばす。雪さんの手の感触はひんやりとしていて、けれど柔らかく
て気持ちよかった。
「熱は……ないようですね。では、失礼します」
 そう言うと、雪さんは僕の布団をめくった。
「……あら、こちらは元気なようですけど」
 雪さんはソレを見て、いたずらっぽく笑った。
 僕は自分の身体なのにどうすることもできず、ただ顔を真っ赤にするだけだった。
「これは……静めないといけないようですね」
 ゴクリ、という音が雪さんの喉から聞こえたような気がした。
 雪さんは手馴れた様子でソレを引っ張り出すと、
「ご奉仕……させていただきますね?」
 と言うが早いか、ソレをぱくっと口に含んだ……。



続きが気になる方は……。





ごめんなさい。
続きなんて書けません。



��月1日だから、なんとなく書いてみようという理由で書いただけなんです。



それでも続きが読みたいと言う方は、掲示板なりメールなりでご連絡をどうぞ。
場合によっては続きを書くかもしれません。



ちなみに、この作品をPC版とすると、コンシューマー版が毎月連載予定の『雪さんSS』に
なります。ご了承ください。



本当に期待してこのページに飛んできた方。
申し訳ありませんでしたー(ぺこり)。



2004/03/22

「あの人への想い」(君が望む永遠)



 8月27日は、私にとって、忘れられない日になりました。



��日前、夜



 昼の暑さがまるで夢だったのではないかと思わせるぐらい、その日の夜は涼しかった。
 まだ秋の訪れには早いはずだ。天気予報によると、明日も明後日も快晴のお天気で
あることから、この涼しさはきっと今夜だけのものなのだろう。
 理由はさておき、涼しいので勉強もいつもの2割増ではかどっているような気がする。
 そうして、8月24日の夜は更けて行った。……いや、更けていくはずだった。



 1通のメールを受け取るまでは。



 時計の針が23時を過ぎ、少し休憩しようと思って椅子から立ち上がった時、充電器に
置いてある携帯電話からクラシックのメロディが流れた。
 それは私、涼宮遙の携帯だ。私はメール着信音を落ち着くクラシック曲に設定している。
 私はさっきまで座っていた椅子にまた着席。携帯電話を開いて見た。
「……あ、水月からだ」
 そのメールは、私の親友、速瀬水月から届いたものだった。



 水月とは、私が病院から退院して以来、まだ一度も会っていない。そろそろ1年近くに
なるけど、なかなかお互い後一歩を踏み切ることが出来ないからだ。
 退院してから約半年後、私の誕生日に水月は電話して来てくれた。その時は突然の
ことでびっくりして、でも嬉しくて。あまりお話出来なかったけど、水月も元気でやって
るんだということがわかった。
 後日、平君を介して水月の携帯のメールアドレスを教えてもらった。
 それから私と水月は、時々メールのやり取りをするようになったんだ。
 ほら、電話では話しにくいけど、メールだと気軽に出来ちゃうものじゃない?
 なんて言うのかな。交換日記みたいな感じで、ちょっと反応がゆっくりなところも今の
私たちには合っていた。
 ほとんどが他愛もない日常のやり取りだったけど、メールだと以前のように自然に水月
とお話が出来たんだ。



 何かあったのかな……。
 私は水月のメールを読んでみることにした。



『こんばんは、水月です。こんな時間だけど、よかったかな?
やっと今日の仕事が終わったんだよね。最近はすごく忙しくて
毎日が大変です。今年の夏はお盆も休みがなくてずっと仕事
だったんだよ?信じられないでしょう。でもほんとなんだ、これが。
近況はこれぐらいにして本題に行くね。
明日から私は1週間のお休みです。すごく遅い夏休みだけど。
だから、久しぶりに里帰りしようかなーと思います。
つまり、そっちに行こうかなってこと。
ようやく気持ちも落ち着いて。
遙に逢いたくなりました。
だから、遙さえよければ都合のいい日を連絡してくれないかな。
よろしくね。
それでは~。
夜遅くに長々とゴメンね。』



 水月、戻って来るんだ……。
 メールを何度も読み返してから、アメリカに留学している茜に電話した。
「もしもし?遙です。夜遅くにゴメンね。……え、こっちは夜じゃない?
あ、そっか。あはは、間違えちゃった。あのね……」



��日前、夜



 私は、ゆうべの茜との電話のやり取りの内容と私の予定と、その他諸々を考慮して出た
結論を水月にメールで送った。



『こんばんは、遙です。今日は1日中暑かったねえ。今も部屋の
温度計が25度を指してるから今夜は寝苦しいかもしれないね。
さて、ゆうべのメールの件ですが、私も水月に逢いたいです。
逢っていろいろお話したいよ。
それで、日にちなんだけど。明後日の8月27日はどうかな?
時間は3時で、集合場所は柊町駅前のコンビニ。
最近新しく出来たところだから水月は知らないかもしれないけど、
まだきれいでコンビニは1軒しかないからすぐわかると思う。
これでどうかな?』



 メールを打ち終わって送信した後、私はのんびりとお風呂に入った。
 いつもより時間をかけて丁寧に髪の毛を洗う。髪の毛のお手入れってなかなか大変なん
だよね。忙しい時は、つい扱いが雑になっちゃうけど、そうすると髪の毛が痛んできちゃ
う。
 何でもそうだけど、毎日の積み重ねが1番大事なんだね。
 1時間ほどお風呂で過ごして部屋に戻ってきた。
 携帯を見ると、メールが届いていた。



『水月です。ほんと今日は暑いね!普段はなるべくエアコンを
使わないようにしてるんだけど、今日はガマンできないよ。
メールありがとう。うん、27日の3時で柊町駅前のコンビニ
だね。オッケーだよ♪
実は今日こっちに戻ってきた時に、そのコンビニに寄ったの。
きれいだし、結構品揃えもよさそうじゃない。
ではでは、当日にお会いしましょう~。』



 水月からのメールだった。日付もオッケーでよかった。
 実は水月にはナイショなんだけど、今、水面下で秘密の計画を実行中なんだ~。
 当日どうなるか、今から楽しみだな。



��日前



 ドタバタと忙しい1日だった。朝から出かけて買い物をして、昼からはずっと準備で
あたふたあたふた。でも、その甲斐があって、なんとか準備が間に合ったよ。
「後は、明日になるのを待つだけだね、姉さん」
「そうだね。疲れたでしょう?今日は早く寝たほうがいいよ」
「うん。……そうだ!久しぶりに一緒に寝よっか?」
「え?」
「いいじゃん、たまには~。可愛い妹のお願いは聞いてくれないとお姉ちゃん失格だよ」
「……しょうがないわね。今日だけよ?」
「うん。だから姉さん好き~♪」
 そう言うと、茜は抱きついてきて、ちゅっとほっぺにキスをした。
 くすぐったいよ~。
 あ、なんで茜がいるのかってことは明日のお楽しみです。
 明日は晴れるといいな。



��月27日



 朝、目が覚めるとすでに時計の針は8時を回っていた。いつもは遅くとも7時過ぎには
起きているので、ちょっと寝すぎたかも。
 幸い、水月との約束の時間にはまだかなりの余裕があるからいいんだけど。
 朝食を食べるためにキッチンに行く途中、茜の部屋に寄ってみた。
 コンコン
 …………。
 ノックをしても返事がないので、そーっとドアを開けてみると茜はぐっすりと眠ってい
た。
 しかたないよね。昨日は準備に一生懸命がんばってくれたんだから。
 私は茜を起こさないように再びそーっとドアを閉めると、今度こそ朝食を取るために
キッチンへ行った。



 朝食を食べてからはいつものように勉強開始。実は私、来年は白陵大に行こうと思って
いるんです。絵本作家になりたいという夢は、3年経っても色褪せることなく私の中に
残っていたから。その夢を実現するためにも、大学に行ってもっと勉強したい。
 そのためにも、毎日のお勉強はかかさずやっていきたいな。



 2時ごろ、ようやく茜が起きてきた。時差の関係か、それとも昨日の疲れか、まだ少し
ぼーっとしているようだった。
 髪の毛についていた寝癖を指摘すると、これはいいの!と怒っていた。
 あ、そうか。そう言えばそうだったね。えーとなんて言ったかな……あほ毛?



 ぷんぷん怒っている茜を残して、私は家を出た。髪のセットをして、お気に入りの白い
ワンピース、お気に入りの帽子を身につけて。
 だって、今日はすごくいいお天気なんだから。



 2時半よりちょっぴり前に柊町駅に着いた。コンビニに行ってみたが、水月はまだ来て
いない。日陰になっている場所を探して、そこで水月を待つことにした。
 駅前は平日なのでサラリーマンの姿は少ないが、まだ夏休みなので高校生ぐらいの
若い人たちの姿が多いように思えた。



 そう言えば、私もここで待ち合わせしたっけ……。
 まだ白陵に通っていた4年前の夏。いろんなことがすごいスピードで駆け抜けて行った
あの夏。
 花火大会、カラオケ、プール、ミートパイ記念日、おまじない、絵本作家展……。
 それらは4年も前のことなのに、私の中ではまだ鮮明な記憶で残っていた。



 そんなことを考えていると、ぽんっと肩を叩かれた。
「久しぶりだね、遙」
 肩を叩かれた方向を向くと、そこには少し髪を伸ばした水月が立っていた。
「ごめんね、急いで来たんだけど待たせちゃったかな?」
 手を合わせてごめん、とあやまる水月の姿は、私の記憶のままの水月だった。たとえ
時間が経っていても、その人が持つ雰囲気というものは変わらないみたい。
「ううん、大丈夫だよ。だって……ほら、まだ3時前だもん。遅刻じゃないから平気」
 左手に着けていた腕時計を見せると、水月はよかったーと胸を撫で下ろしていた。
「立ち話もなんだから、ちょっと歩こっか。でもその前に…」
 そう言うと水月はコンビニに入って行って、すぐに出てきた。手に持ったビニール袋
には飲物とおやつ。
「よし、準備OK!しゅっぱつ~」
「うん」
 そうして私たちは歩き始めた。
 どこへ行くかなんていちいち確認する必要もない。大切なのは場所じゃなくて、2人が
今ここにいるということだから。
 歩きながらちょっとずつ水月とお話。話題は最近のこととか主に近況報告かな。
 逢う前は少し不安だったけど、実際逢ってみると意外なほど自然に話す事ができて
自分でもびっくり。もう少しぎこちなくなるかと思ってたけど、私たちはすごく普通に話
すことができた。
 多分、水月が以前と変わらない感じで話し掛けてくれたことが大きいと思う。
 そういうなんでもない当たり前のことが、すごく嬉しかった。



 歩いているうちに公園の近くを通りかかった私たちは、どちらが誘ったわけでもないが
公園へと入って行った。
 町中にある公園にしては緑が多く、結構広い。
「ふーん、この公園まだ残ってたんだ…」
 水月が呟く。
 それもそのはず。この公園はいつだったかは覚えてないが、取り壊されることが
決まったという告知の張り紙が張られていた公園だからだ。だけど、どうしてなのか
取り壊しは中止になって今に至っている。
「あ、あそこのベンチに座ろう、水月」
 ちょうど木陰になっているベンチを見つけた私は、水月を誘ってベンチに座った。
「はい、遙」
 水月が先ほどコンビニで買った飲物を渡してくれた。私はありがとうと言って受け取り、
それを一口飲んだ。
 公園は私たちの他には人影がなく、静かだった。3時半ごろになっても夏の日差しは
衰えない。確かにこの辺りの子どもたちの数が少なくなっていることもあるだろうが、
この暑さの中、遊びに行こうと考える子はいないようだった。



「ねえ、水月」
「なに?」
「また……伸ばし始めたんだね。髪」
「うん。……もう、短くしておく理由も……ないから」
「………………」
 セミの声がBGMとして聴こえていたが、いつの間にか静かになっていた。
「もうそろそろ、ポニーテールも結えそうだね」
「うん。今ぐらいの長さって中途半端だから、いろいろと不便なんだ。やっぱり私には
ポニーテールが一番かなーなんて思ったよ。仕事場ではあんまり関係ないんだけど」
「仕事って、何のお仕事してるの?」
「あー、言ってなかったけ。私、先生だよ」
「……え?」
 …………水月が先生?
「と言っても、スポーツクラブの水泳教室の先生なんだけどね」
 ぺろっと舌を出して水月が笑う。
「そっか。先生なんだ。すごいね」
「そうでもないよ。ただ、なんて言うのかな。最初はなんとなく選んだんだけど、やっぱ
り水が性にあってるのかもしれない。泳いでると気持ちいいんだね。いろんなモヤモヤ
してることも、ふわっと軽くなる感じ。正直、白陵で泳いでるときはそんなふうに思うこ
とってなかったから」
 コクリ、と手に持った飲物を飲む水月。
「だから、今は結構楽しいよ。休みが少なくて大変だけど、それでも楽しいんだ……」
 水月はそう言うと、袋の中からおやつを取り出して食べ始めた。
「はい、遙。『いもきんつばポリッチ』おいしいよ」
 おもむろに差し出されたそれを条件反射で受け取る私。こんなのあるんだ……。
「ところでさ、遙は今何やってるの?」
「……私?私は白陵大目指して勉強中の毎日だよ。涼宮遙は受験生なのです」
 ポリッチを食べながら答える私。あ、これおいしい。
「そうなの?てっきり私は花嫁修業中の身なのかと思ってた。あははっ」
「私、絵本作家になりたいんだ。そのためにも大学に行っていろいろ勉強したいの」
「そう言えばそうだったね。遙の部屋って、絵本博物館並に絵本がいっぱいあったっけ」
「そんな建物あるのかな?絵本美術館はあるんだけど……」
「え、ほんとなの?」
「…………」
「や、やあねえ。シャレじゃないわよ。でもそんなのあるんだ……」
 なんだか妙なところで感心している水月だった。



 ……。
 …………。
 ………………。



 ふいに、会話が途切れた。



 静かになっていたセミの声はいつの間にか再開していた。
 時々ポリッチを食べる音や飲物を飲む音だけが聞こえる。
 しばらく、時間は静かに流れていた。



「……あのね、遙」
「……なに、水月」
「………………」
「………………」
「実は今回戻ってきたのは、遙に逢いたかっただけじゃないの。遙に、これを……
受け取ってほしくて」
 水月がカバンから取り出したそれは、シンプルな真っ白の包み紙で包まれていた。
 中身は、指輪だった。シンプルな形だけど、それがこの指輪には合っているように
思えた。
「これは……?」
「私が…………孝之からもらった指輪なの。誕生日に」
「……え?」
「あの日、偶然孝之と出会った私は、ちょっとしたイタズラ心で孝之にプレゼントを
ねだってみたの……」
 あの日(私が事故にあった日だ)が誕生日だった水月は、偶然会った孝之君に
誕生日のプレゼントをねだってみた。半分冗談で指輪を選んだら、渋った末に
孝之君は買ったあげたらしい。
「どうして……、どうしてこれを私に?」
 水月にとっては大切な指輪のはず。なのにどうして…。
「これは水月にとって思い出のつまった物なんじゃないの?」
「……そうね。良い思い出もそうじゃない思い出も、いっぱいあるわ。でもね……」
「…………」
「でも、私にとっては過去の大切な思い出だけど。いつまでもそれにすがって生きて
いくわけにはいかないもの」
「…………」
「遙、孝之のこと……好き?」
「……うん、好きだよ」
 はっきりと、答えた。
「なら、それはやっぱり遙に持っていてほしいの。孝之を好きなあなたに」
 …………。
「それに、遙だから渡したいと思った。他の誰でもない、遙だから」
 指輪をじっと眺める。それは使い込まれた物だけが持つ雰囲気があった。それは
水月がこの指輪とともに過ごし、そしてこの指輪を大切にしてきたという証でもある
ように思えた。
「ひとつだけ、聞いてもいいかな」
 私は水月としっかり向き合って、質問した。



「水月は、孝之君のこと、好きですか」



 ………………。…………。
「うん。好き、だったよ」
 水月は、私の目を見つめて、そう答えた。
 ………………。
 水月の言葉を聞いた私は、ゆっくりと指輪をはめてみた。右手の薬指にはめて
みると少しきつかった。だから今度は左手の薬指にはめてみることにした。
「あ……」
「ぴったり、だね。遙」
「うん。……ありがとう、水月。ずっと……」
「なに?」
「ずっと……大切にする、よ……」
 私はそこまで言うのが限界だった。
 私は水月にしがみつくと、こらえきれなくなって、泣いた。
 水月も私を抱きしめて、いっしょになって、泣いた。



 ………………。



 しばらくしてから、私たちは離れた。顔はお互い涙でぐしょぐしょだった。
「こうやって泣くのは、2回目だね」
「うん」
 私たちはもう1度、お互いを抱きしめあった。



―――――――――――――――――――――――――――――――――



「でもいいの?お邪魔しちゃって」
「もちろん。せっかく帰ってきたんだから、寄っていって」
 あれから私たちは歩いて遙の家まで来ていた。
 私はそのまま実家まで帰るつもりだったんだけど、遙がどうしてもって言うから
お邪魔することにしたんだ。
「ただいまー……あれ、誰もいないのかな」
「お、お邪魔しまーす。……出かけてるの?」
「うーん、そうかもしれない。あ、リビングに行ってて。今、お茶持っていくから」
 遙がそう言うので、私はひとりリビングへと向かった。勝手知ったるなんとやら。
白陵にいた頃は何度も遙の家に遊びに来てたから、リビングの場所ぐらいは
覚えている。
 ただ私が心配だったのは、茜のことだった。あの時以来、茜とは話をしていない。
 遙とはメールでやり取りしてたから少しは楽に話し掛けられたけど、実際は
話してみるまですっごくドキドキしていた。
 だから、茜と話すことを思うと、ちょっと躊躇してしまっているのも事実だ。偶然に
今は留守にしているようだから、今日のところは都合がよかった。
 私は迷うことなくリビングに着いた。そしてドアを開ける。すると、



 パンパンパン!!!



「わぁっ?!」
 突然の音に、私はびっくりして尻餅をついてしまった。
 な、なんなの?
 何が起こっているかわからない私に、すっと手が差し伸べられた。
「ご、ごめんなさい。そんなに驚くとは思ってなかったから……」
 そう言って手の差し伸べてきたのは、
「あ、茜……?」
「はい。……お久しぶりです。水月先輩」
 茜は私の手を取って立たせると、ぺこりとお辞儀をした。
「も~、だからやめておきなさいって言ったのに」
 遙が飲物を持ってリビングにやってきた。
「だって、びっくりさせたかったんだもん……」
 しょんぼりしながら答える茜。
「じゃあ、留守だと思ってたのは……」
「はい。全部驚かせようと思って仕組んだことなんです。そのために姉さんにも
水月先輩を連れてきてもらったんですよ」
 なんだ、そうだったんだ…。
 気が抜けた私は、へろへろと床に座りこんだ。
「ご、ごめんね。びっくりさせて。だって今日は…」
「水月先輩のお誕生日だから、内緒にして驚かせたかったんですよ~」
 遙の言葉を受け継いで、茜が答えた。



 え?



 見ると、テーブルの上にはケーキが。リビングにはいろいろと飾りつけが
してあった。
「お、覚えててくれたの?」
「もちろんだよ、水月。親友の誕生日は忘れないよ」
「そうですよ。おめでとうございます。そして……お帰りなさい、水月先輩」
 遙……茜……。
「あ、りがと……う」
 私は2人に抱きついて、今日2回目の涙を流した。
 遙も茜も、そんな私を抱きしめてくれ、優しく頭をなでてくれた。
「……今日は、再会お祝い記念日だね!」
 もらい泣きしながらの遙の言葉に茜は嫌そうな顔をしたが、私は
「うん」
 と、素直に頷いていた。
 ありがとう。最高の贈りものだよ。



そして――



 教会の鐘が鳴り響く音が聴こえる。
 いよいよ、かな。



 桜の花が舞う季節。
 今年は例年より開花が早かったせいか、すでに満開だ。
 私は、ある教会の外、少し離れたところに立っていた。
 遙から届いた結婚式の招待状。
 出席に丸をつけたものの、教会の中に入るのはなぜかためらわれた。
 そんなわけで、私は教会の外で遙が出て来るのを待っていた。
「ここにいたんですね、水月先輩」
「……茜」
 振り向くと、そこには遙の妹の茜が立っていた。
「どうして中に入らないんですか。私、受付でずっと待ってたのに」
「うーん、なんとなく。決して遙をお祝いしたくないわけじゃないわよ」
「ええ、わかってます」
 茜はにこにこと嬉しそうだ。
「でもどうして茜がここに?中にいなくていいの」
「えっとさっきまでいたんですけど、今日の主役は姉さんだし、水月先輩の
ことも気になってたので抜けてきちゃいました、えへっ」
 まったくもう、この子は。
「それはそうと、茜。今年はいよいよオリンピックの年だけど、調子は?」
 茜は、水泳選手としてはちょっと多き目の胸を叩いて答えた。
「ばっちりです。まかせてください。掲示板の一番上に『AKANE SUZUMIYA』の
表示を出して見せますから」
 やけに自信たっぷりだが、この子にとってはこれぐらいがベストなのかも。
「がんばってね」
「はい!……あ、そろそろ姉さん出てきますよ。行きませんか?」
「あ、うん。もうちょっと後で行くわ」
 そうですか、と頷いて、茜は教会の近くへと歩いていった。
 きっと遙が投げるブーケを取りに行くのだろう。
 私も欲しくないわけじゃなかったけど、教会の中に入ってなかったから、
あの場に行く勇気はなかった。
 そんなことを考えていると、遙が出てきた。隣には、旦那様である孝之。
 遙は真っ白なウェディングドレスで、ほんとうに綺麗だった。
「遙、すっごく幸せそうだな……」
 遙のその笑顔が見られただけでも、今日ここに来た甲斐があったという
ものだ。これ以上の高望みはバチが当たってしまうだろう。
 やがて、遙はブーケを構えて、空高く放り投げた。
 ブーケはゆっくりと空を舞い、なんと茜の元へと落ちていく。
 茜の手にブーケが収まろうとしていたその時、



 一瞬、強く吹いた風がブーケを再び舞い上がらせた。



 ブーケはふわりと空を舞い、私の手にぽすっと収まった。
 え、いいのかな。
 遙のほうを見ると、私のことに気づいてびっくりしているようだった。



 ありがとう、遙。忘れられない贈り物だよ。



 私は遙と孝之にお祝いを言うために、2人の元へ歩き出した。



 桜の花が舞う季節。
 私たちの想いは、遠く離れた場所にいても1度溶けあった想いは、決して
離れることはない。
 その想いのひとつひとつの積み重ねが、私たちが望む永遠を作り上げていく。









Fin



あとがき



PCゲーム「君が望む永遠」のSSです。
ヒロインの涼宮遙の聖誕祭用です。
まずはじめに、読んで頂いてありがとうございました。
このSSは遙エンド後のお話として書いています。
僕が以前に書いたSSの「Happy Birthday!!」と「1年で1番幸せな記念日」の
後のお話になっていますので、興味がある方はそちらもご覧ください。
途中から水月視点になったのは自分でも意外でしたが、これはれっきとした
遙SSです。
今回のコンセプトは、水月から遙への指輪の受け渡しでした。
どうしてもこのシーンだけは書きたかったんです。
ラストが遙の結婚式になったのは、ウェディングドレス着用企画にヒントを頂いた
からですが、思ったよりもいい感じに仕上がったかなと思います。
やっぱり水月にも幸せになってもらいたいですから。
とにかく、これで僕が書く遙メインのSSは完結です。
もう少しライトな感じのSSは書くかもしれませんが、シリアスな雰囲気のものは
書かないと思います。



それでは、また次の作品で。



��004年3月22日 涼宮遙さんお誕生日♪



2004/02/19

「あの人への想い」(君が望む永遠)



 今日は朝からいいお天気でした。
 お洗濯をしていると、自然に鼻歌を歌っていました。
 そのことに気づいて、少し自分でも驚きました。



 私、普通に笑えるんだなって。



 朝ご飯を気分よく食べ終えて、時計を見ると出勤10分前。
 たまには早く行くのもいいかも。
 そう考えた私は、戸締りをして部屋を出ました。
 アパートの階段を降りていくと、管理人さんが掃き掃除をしている光景が目に入りまし
た。
 管理人さんは私の足音に気づいたのでしょう。顔を上げると、
「あら、おはようございます。穂村さん」
 と、にっこり笑って挨拶をしてくださいました。
 おはようございます、と反射的に挨拶を返す私。
「今朝はいつもよりも少し早いんですね」
 さっ、さっ、と気持ちのいいリズムで掃除をしながら管理人さんが尋ねてくる。
「はい。いつもより早く準備ができたので、たまには早いのもいいかな、と思いまして」
 答えながら、嬉しそうに話をしている自分に気がついた。



 なんだか、今日は不思議な感じ。



 それでは、と管理人さんに会釈して、私、穂村愛美は勤め先である欅総合病院に向かっ
た。
 いつもより、幾分弾む足取りで。



 病院に着いて、服を着替えるとやっぱり気合が入ります。まだ私は准看護婦なのですが、
患者さんに対する気持ちは先輩にだって負けません。



 今日もがんばろう。



 両手をぐっと握って気合を入れて、私は今日のお仕事を開始しました。
 今日の最初の仕事は洗濯です。山のようにある洗濯物。いつもなら、ちょっと憂鬱な気
分になるのですが、今日はなぜか気分がいいです。



 これもお天気のおかげかな。



 そう思いながら、少しずつ洗濯物を片付けていると、先輩がやってきました。
「おはよぉ~、穂村。今日もいい天気だね~」
 星乃先輩です。先輩はいつもこんな喋り方ですが、決して仕事がいいかげんなわけでは
なく、むしろその技術は見習うべきところばかりです。
「おはようございます。星乃さん」
 星乃先輩に挨拶をして、私は仕事に戻ります。
「今日は洗濯が多いみたいだから手伝いがいるかと思って来たんだけどぉ~、どう?」
「あ、大丈夫です。私ひとりでやれますから」
「そぉ? じゃあよろしく~」
 手をひらひらさせながら、星乃先輩は戻っていきました。



 それから2時間ほど経って、ようやく洗濯が終わりました。
 病院の屋上には真っ白になったシーツが何枚も干してあって、なかなか壮観です。
 心地よい風が吹いています。
 休憩も兼ねて、私はしばらく屋上から景色を眺めていました。
 すると、ガチャッという音がして屋上の扉が開いて、誰かが入ってきました。
 先輩かと思ってドキっとしましたが、違いました。それは私のよく知っている人でした。
「ん?……ああ、穂村さんか。おはよう」
「おはようございます。鳴海さん」
 屋上に来たのは鳴海さんでした。鳴海孝之さん。私にとって、特別な人…。
「香月先生でしたら、こちらにはいらっしゃいませんけど」
「ああ、そうなの?医局にもいないから、てっきり屋上かと思ったよ」
 そう言うと、鳴海さんは屋上のフェンスにもたれかかった。
「ここは気持ちいいなあ。……もう、この景色も見納めかと思うとちょっと寂しくなるな
あ」



 え?



 私が硬直していると、
「遙が今日で退院するんだ。だから、もうこの病院に来る事もなくなると思う」
 と、説明してくれた。
 そうか、涼宮さんが今日で退院するんだ…。
 涼宮さんはずっと前からこの病院に入院している患者さんで、鳴海さんは涼宮さんの彼
氏さん。
 だから、涼宮さんのお見舞いに来るのは当然で、涼宮さんが退院すれば病院に来なくな
るのも当然だった。
「今までいろいろ遙がお世話になりました」
 鳴海さんはぺこりとお辞儀をした。
「いえ、その……私は自分の仕事をしただけですから……」
 私は少しパニックになって、しどろもどろに返答した。
「それじゃあ俺は遙の病室に行ってみます。もし香月先生が来たら、俺が探していたと伝
えてくれませんか」
「あ、はい。わかりました」
 私の返事を聞くと、鳴海さんは行ってしまった。



 鳴海さんともうすぐ会えなくなっちゃうんだ。



 そのことばかりが頭の中で渦を巻いて。
 お昼休みまでの時間はぼーっとしたまま過ごしてしまい、星乃先輩にからかわれるネタ
になったのはまた別の話。



 お昼を過ぎて、やっと休憩時間を取ることができた私は、涼宮さんの病室に行ってみる
ことにしました。
「……失礼します」
 ノックをして部屋に入ると、涼宮さんは不在で、代わりに涼宮さんの妹の茜さんが
部屋の片付けをしていた。
 すでに片付けはほとんど終わっていた。一応、何かお手伝いできることはありませんか?
と、尋ねてみたが、
「もうすぐ終わるから大丈夫です。どうもありがとう」
 という返事が返ってきた。
「あ、姉さんなら今医局にいると思います。多分、香月先生とお話をしているころなんじゃ
ないかな」
 茜さんにお礼を言って、私は病室を出ました。
 私は涼宮さんに用があるのではなく、鳴海さんにもう一度だけお話したいことがあった
のですが、残念ながら休憩時間も終わりに近づいていたので、やむなく仕事に戻りました。



 夕方になり、いよいよ涼宮さんが退院する時がやってきました。
 院長をはじめ、みんなでお見送りです。
 医局からでてきた涼宮さんをみんなで出迎えます。
 その後の香月先生に続いて、鳴海さんが出てきました。



 拍手で出迎えながら、自然に涙が溢れていました。



 まわりを見ると、にっこり笑って見送りをしている人。
 もらい泣きで泣きながら見送りをしている人。
 いろいろな人がいます。
 でも、私の涙はほんの少しだけ、理由が違っていました。



 涼宮さんたちが車に乗り込みました。
 私はこれが最後かもしれないと思い、鳴海さんの姿を一生懸命見つめました。
 鳴海さんは笑っていました。
 その目は涼宮さんに向けられています。
 私はそっと目を閉じると、誰にも聞こえないような小さな声でお別れをしました。



 ありがとう、鳴海さん。
 あなたにもう一度会うことが出来て、本当によかった。



 私は車が見えなくなるまで見送りをしてから、仕事に戻りました。
 空を見上げると、朝と同じくいいお天気。
 風がやさしく吹いていました。
 それは、それぞれの門出を祝福しているようでした。



おわり



あとがき



PCゲーム「君が望む永遠」のSSです。
ヒロインの穂村愛美の聖誕祭用です。
背景は『遙エンド』なので、安心してご覧頂けたのではないでしょうか(笑)。
マナマナにはこういう一面もあるんですよ、ということをみなさんに
知っていただけたら幸いです。
それではまた次の作品で。



��004年2月19日 マナマナのお誕生日♪



2004/02/03

「豆まきなんて大嫌い!」



 今年も2月3日がやってきた。
 今日が何の日かは、ちっちゃい子からお年寄りまで、みんな知ってる。
 そう。節分だ。
 季節の分かれ目、という意味があり、立春、立夏、立秋、立冬の前日のことを示すらし
い。
 だから、1年に4回は節分がやってくるのだが、なぜか2月3日だけが有名になってい
る。
 まあ、そんなことはどうでもいい。
 と言うより、1年に4回もやってこられたら大変なのだ。
 だから、1年に1度の2月3日。
 この日だけを切り抜けることができれば、何の問題も無い。
 無事、切り抜けられればの話だけど。



 時計の針が5時を指した。チャイムが鳴り響く。今日の仕事は終了だ。
 今、うちの会社はちょっとだけ暇になっている。従って、残業をすることはできない。
 普段は残業なんてやりたくはないのに、今日に限っては別だ。
 残業という理由があれば納得してくれるのだろうが、なかなか世の中はうまくいかない
ものらしい。
 無駄に会社で時間をつぶすことすらできないので、あきらめて帰り支度をする。
「よう、福野。今日はこれからどうするんだ?」
 同僚の桜餅が話し掛けてきた。
 もちろんあだ名だ。いつも血色の良い桜色の頬と、もちもちとした身体。
 なにぶんストレートなあだ名だが、命名したのはヤツの彼女なので桜餅も文句が言えな
いらしい。
「どうって……家に帰るんだが」
「なんだ。何か用事でもあるのか」
「あると言えばあるし、無いと言えば無い」
「なんだかよくわからんが……。まあいい。ちまきがこれから飲みに行こうって言うんだ。
お前も来いよ」
 ちまきというのは桜餅の彼女のことだ。ちなみに本名だ。ふたりが結婚して子供が生ま
れたら、男だったら大福、女の子だったら苺大福という名前にするのかと、酒の席で言っ
た事がある。
 もちろん、そのときはちまきにしこたま殴られたけど。
 ……酒を飲むのは控えようと思った。
「悪いけど、今日は帰ることにするよ」
「そうか。じゃあまた今度な」
 ヤツは残念そうな素振りも見せず、さっさと行ってしまった。
「……帰るか」
 ボソリと呟くと、僕はカバンを持って会社を出た。
 電車を乗り継いで自宅に最寄の駅に着く。
 その瞬間、空気が張り詰めた!
 嫌が応にも緊張が高まる。
 僕は注意深くあたりをきょろきょろと見回しながら、改札を抜け、駅を出る。
 まわりに人影は、ない。
 緊張感を纏ったまま、家へ向かって歩き始める。
 コツコツと僕の靴の音だけが響く。しばらく歩いていたが何のアクションもない。
 ちょうど駅と家の中間まで来た頃、街灯の下に1匹のネコがうずくまっていた。
 黒と白が仲良く混ざり合った灰色のネコ。うちのネコ、カーラだ。
「何やってんだ、こんなところで」
 そう言って、カバンを置いてカーラを抱きあげる。カーラがにゃおんと鳴き声をあげた
その時、
「もらった!」
 と言う声が聞こえると同時に、無数の何かが僕(とカーラ)に向かって撃ちこまれた!
 とっさにカーラを抱えたままその場から飛びのく。
 あの声は……一姫だ。
「いつきのバカ! 早いんだよ!!」
「うるさいわね! そんなこと言ってる間に攻撃しなさいよ、ニタロー!!」
 僕を間に挟んで、あっちとこっちで会話が繰り広げられる。
 一姫と二太郎の声の聞こえてきた方角から最も離れた方向へと僕は走り出す。
 その直後、ビシビシビシッッッと地面に何かが叩きつけられる音。間一髪。



 その後は2人の散発的な攻撃をなんとか潜りぬけ、なんとか家まで辿り着いた。
 玄関の扉を開けると、愛する妻の美沙希が出向かえてくれた。
「おかえり神弥。その様子からすると、今年は無事に逃げ切ったみたいね」
「かろうじて、だけどね」
 息をはずませながら答える。後ろを振り向くと、一姫と二太郎が残念そうにうつむいて
いる。
「じゃあ、あんたたち。これはあずからせてもらうわよ」
 そう言うと、美沙希はふところから一姫と二太郎のお年玉を取り出し、中身を半分ずつ
抜き取ると、ふたりに手渡した。
 くやしそうにお年玉を受け取る一姫と二太郎。
 我が家では、節分の日の鬼ごっこは恒例の行事になっている。
 子供たちが勝てば、お年玉は2倍。(ただし、その分は僕が出さなければならない)
 僕が勝てば、お年玉は半額。(半額は美沙希の元へ。貯金しているらしいが、真実は闇
の中)
「「お父さんのバカー!」」
 2人仲良く叫ぶと、一姫と二太郎は家に飛び込んでいった。
 なんで僕が悪者なんだ……。名前だけ見ればとってもえらいのに。
 福野神弥。ふくのかみなんだけどなあ……。
 そう言えば、桜餅のやつが言ってたな。ちまきの『き』は鬼の『き』だって。
 という事は美沙希の『き』は……。
「神弥~。今夜はいっぱいサービスしてあげるからね~」
 デカイ声でそう言うと、美沙希は家に入っていった。
 ……ご近所中にまる聞こえなんですけど。
 やれやれと思いながら、家に入ろうとして気がついた。
「カバン、忘れてきた」
 その頃。街灯の下に置き去りにされていたカバンは、豆まみれになっていた。
 トホホ……。



おわり。



あとがき





突発的に書きたい衝動が湧きあがったので、書いてしまいました(笑)。
思い着くままにつらつらと文章を書き連ねるのも楽しいですね。
それではまた。



��004年2月3日 たいしておいしくない豆だけど、気づけばたくさん食べている日



あとがきのついき



今回は、まずタイトルを考えてから、それから本文を書き始めました。
書き終わってから、妙にガキっぽいタイトルだなーと(汗)。
主人公は妻子ある男なのに……。
何も考えずに書くのも良し悪しですね。
執筆時間は1時間30分ほどだったので、いいペースで書けたんですけどね。
オチも5分ぐらい考えたものですし。
それではまた次の作品で。



��004年2月7日 少しくもってて寒い日