2004/05/30

「水無月の雨と雪」(水月)



 ざざーん、ざざーん。
 波の音。毎日のように聞いている波の音だが、決して同じものはないのだろう。
 でも、毎日聞いているから。



 僕は今、夢の中にいるんだって、わかっている。



 ふと、視線を感じて目をそちらのほうへ向けると、そこにはひとりの少女がいた。
「ナナミ様……じゃ、ない?」
 いつもの夢では、そこにいるのはナナミ様だ。
 黒くてまっすぐな長い髪が幻想的で、この世の物とは思えない美しさ。
 一目で心を奪われてしまったその姿。
 しかし、今日は違った。
 少し茶色がかった髪は肩の下ぐらいまでの長さ。キレイというよりは、可愛いといった
ほうがぴったりな雰囲気。
 そして、ナナミ様との決定的な違いは。



 その子は、僕を見つめて幸せそうに笑っていた……。



 ざー…………。
 雨の音。小さい頃から何度も何度も聞いているのに、どうしてか落ち着かない。
 理由はなんだったのか。覚えていれば少しは気が楽になるのかもしれないが、あいにく
家の間取りといったどうでもいいことは覚えていても、肝心なことは覚えていない。



 そう、僕、瀬能透矢は記憶喪失だったりする。



 ふと目が覚めたら今までの記憶がないなんてウソみたいな話だが、事実なんだからどう
しようもない。
 普通だったら記憶喪失なんてものは、いろいろと大変なんだろう。実際、いろいろと問
題はあるのだが、家での生活に関しては大丈夫だ。
 なぜならうちには、雪さんがいるのだから。



 こんこん。
 ドアをノックする音に続いて、ひとりの女性が僕の部屋に入って来た。そして、僕の目
の前まで来て深々とお辞儀する。
「おはようございます、透矢さん。今日は……」
 その人は窓の側まで行って、カーテンを開ける。
 ざー…………。
 雨の音。
「……あいにくの空模様ですけど、今日も1日がんばってくださいね」
 にっこりと笑顔でそう言ってくれたのが、雪さんだ。



 雪さん。名を、琴乃宮雪と言う。
 小さい頃にうちに引き取られてから、ずっと一緒に暮らしている。
 そして、今は僕専属のメイドさんということになっている。
 たとえどんな理由だろうと、雪さんがそばにいてくれるなら何も問題はないと思えるほ
ど、雪さんは優秀で素敵で可愛くて、とにかく素晴らしい人だ。



「ナナミ様、ですか?」
 ほかほかの湯気がのぼるごはんの茶わんを手渡してくれた雪さんは、僕の質問にきょと
んとした表情を浮かべた。
「うん。雪さんはそういうのに詳しいのかなって。以前、父さんの書斎でいろいろお話し
てくれたからさ」
 雪さんが作ってくれた朝食を食べながら、ナナミ様について雪さんに聞いてみた。
「……申し訳ありません。あいにくナナミ様の伝承に関しては、雪も町の人たちと同じ程
度の知識しかないんです」
 雪さんは見るからにすまなさそうに答えてくれた。
「あ、いや、別に雪さんが悪いわけじゃないんだから気にしないでよ。ただ、今朝の夢の
内容がちょっと気になっただけだから」
「夢……ナナミ様の夢をご覧になったんですか?」
 小首を傾げて雪さんが聞いてくる。
「あ、そうじゃないんだけど……なんていうか、ナナミ様っぽい人が出てきたんだ」
 雪さんが入れてくれた食後のお茶を飲みながら、今朝見た夢のことを振り返ってみる。
 いつもの展開なら、あの場面では間違いなくナナミ様が出てくるはずなのに、今日に限っ
ては違っていた。
 たかが夢なんだから気にすることでもないとは思うけど、なんとなく気になる。
 だから、もしかして僕が知ってるナナミ様とは違ったナナミ様のイメージがあるのかな
と思ったんだけど……。
 窓の外は雨。ざーざーと降る雨の音だけの、食後のお茶の時間は静かに過ぎてゆく。
 ごくり、と最後の一口を飲み干して僕は席を立つ。
「ごちそうさまでした。今日もおいしかったよ、雪さん」
「ありがとうございます。透矢さんにそう言って頂けて、雪は幸せです」
 毎朝繰り返されているやり取り。
 お互い顔を見合わせて、笑い合う。
 できるなら、この幸せな時間がずっと続きますように。



「ナナミ様のこと?うーん、私はあんまり詳しくないなあ」
 学園に着いてから隣の席の和泉ちゃんにナナミ様のことを聞いてみると、そんな返事が
返ってきた。
「ごめんね、お役に立てなくて。でもどうしてナナミ様のことを知りたいの?」
「うん、実はね……」
「うんうん」
「…………ナイショ」
「「ええ~~」」
 自分から振った話題だったけど、まさか夢に出てくる女の子が気になるから、なんて言
えないので、ナイショにさせてもらったら案の定、非難の声が。
 って、あれ、ふたりぶん?
「ナイショってどういうことかなー?幼なじみの私には隠し事なんてしないよねー」
「あ、花梨ちゃん。おはよう」
「おはよう和泉。今日もいい天気ねー、ってそんなことよりも。透矢くんは何か私に言う
事があるよねー」
 突然現れた花梨にびっくりしつつも、沈黙はさらによくない状況を引き起こすと敏感に
感じ取った僕は、しどろもどろになりながらも返事をする。
「か、花梨おはよう。今日は早いね。……えっと、今日はあまりいい天気じゃないような
気がす」
 ぐいいーー
「いたたたた!!」
 まだ喋ってる途中なのに……。
「か、花梨ちゃん!?透矢くんのほっぺたが伸びちゃうよぉ……」
「言いたいことはそれだけかなー、透矢くん?」
 にこにこと満面に笑みを浮かべながら、僕のほっぺたを引っ張っているのは、幼なじみ
の宮代花梨。……ご覧の通りの性格の女の子だ。
 そして花梨に引っ張られている僕のほっぺを心配してくれているのが、新城和泉ちゃん。
クラスメイトだ。
 このままではナイショのことを白状するまで、花梨は僕のほっぺを離さないだろう。
 しかたなく降参しようとしたその時、
 キーンコーンカーンコーン
 チャイムの音と共に、担任の先生が教室に入ってきた。
「ちっ、命拾いしたわね」
 花梨はそんな悪役のような捨てゼリフを残して自分の席へと戻っていった。
 ようやく解放されたほっぺをさすりながら安堵の溜息をついた僕を見て、和泉ちゃんは
安心したような感じでにこにこと笑っていた。



「さて、早速だが転校生を紹介する」
 今日のホームルームは担任の先生のそんな突然な一言で始まった。
 当然、先生以外の誰も知らされてないわけで、教室のあちこちからいろんな声があがる。
「ほらほら静かに。うるさくすると進行できないだろう」
 先生がみんなを静かにさせるが、それもあまり効果がない。そりゃ、転校生なんて一大
イベントは気にならないほうがおかしいだろう。
「……よし、そろそろいいか。それでは入って来なさい」
 みんなが静かになった頃合を見計らって、ようやく先生は教室の外に声をかけた。
 その声に従って、教室の前の扉がすっと開いた。
 そして、ひとりの女の子が静かに入ってきた。
 その子をはじめて見た瞬間、僕は呼吸を忘れていた。
 少し茶色がかった髪は肩の下ぐらいまでの長さ。キレイというよりは、可愛いといった
ほうがぴったりな雰囲気。



 そう、間違いなく、今朝の夢で見た女の子だった……。



「ん、瀬能。どうかしたのか、急に立ち上がって」
「…………え?」
 先生に言われて、僕はいつの間にか自分が立ち上がっていることに気が付いた。
 みんなの視線が集まっている。そして、あの子の視線も僕に向けられている。
 ……途端に、恥ずかしくなった。そのせいだろうか、
「あ、す、すいません。夢に出てきた女の子にそっくりだったものですから…」
 と、思わず口が滑ってしまった。



 数秒後、教室は大爆笑の渦に包まれた……。



「おいおい瀬能~、それは口説き文句か? やるねー」
「瀬能くんたら、花梨ちゃんや新城さん、それに牧野さんもいるのに、まだ他の子に声を
かけようっていうの……」
 みんな言いたい放題言っている、くそぅ……。
「みんな静かにしなさい。ほら、瀬能も座りなさい。そういうのは休み時間にな」
 先生、フォローになってません……。
 先生はとにかく彼女の紹介を進めることにしたらしく、黒板に彼女の名前を書いてゆく。
「では、自己紹介してください」
 彼女は、はい、と返事をして教壇に立った。
「みなさん、はじめまして。皐月雨乃(さつき あめの)と言います。父の都合でこちら
の学園に転校して来ました。何の取り柄もありませんが、これからよろしくお願いします」
 と言って、ぺこりとお辞儀する彼女は本当に可愛らしくて、男子生徒はもちろん、女子
生徒からも大きな拍手で迎えられた。



 キーンコーンカーンコーン
 午前中の授業の終了を告げるチャイムが鳴り響き、教室はみんなの楽しい笑い声で包ま
れる。誰もが待ち望んでいる昼休みの時間だ。
「透矢、お昼一緒に食べよ?」
「あ、あの透矢くん。私もご一緒していいかな?」
 いつものように、花梨と和泉ちゃんがお弁当を持ってやってくる。もちろんオッケーな
ので、僕は近くの机を集めて3人分の席を作った。そして、カバンの中からお弁当を取り
出す。雪さんのお手製のお弁当だ。
「さすが、雪のお弁当はいつ見てもおいしそうねー」
「本当、透矢くんが羨ましいな……」
「うわー、ほんとおいしそう~」
 花梨と和泉ちゃんの物欲しそうな視線。それだけならいつもの風景なんだけど、今日は
もうひとり増えていた。
「さ、皐月さん?」
 突然のことに声が上擦っているのが自分でもわかる。
「うん、ごめんね。あまりにもおいしそうなお弁当だったから見とれちゃった」
 そう言って笑う彼女は、やはり夢で見たように幸せそうだった。
「あ、皐月さん。よかったら一緒にお昼食べない? 和泉も透矢もいいよね」
 僕には反対する理由はない。和泉ちゃんもにこにこと笑って頷いている。で、肝心の皐
月さんはというと、
「どうもありがとう。じゃ、ご一緒させていただきます」
 にっこりと笑う彼女は本当に可愛かった。
「……透矢、見とれるのもいいけど、皐月さんの席を用意してからにしてよねー」
 花梨の冷やかす声を聞いて、あわてて席を用意する僕だった……。



「ねえ透矢、その卵焼きと、私の卵焼き交換しよ?」
 花梨が僕のお弁当をのぞきこみながらお願いする。
「卵焼きと卵焼きを交換してもしかたがないと思うんだけど……」
 苦笑しながらそう言うと、
「何言ってるのよ。雪が作った卵焼きよ? 意味があるに決まってるじゃない!」
 いや、そんなに力説されても困るんだけどね……。
 やれやれと思いながら、卵焼きを口に運ぶ。
 うん、さすが雪さんが作った卵焼きだ。おいしいおいしい。
 隣では花梨が悲鳴をあげていたりするが、気にせず食事を続ける。
「あの、瀬能君のお弁当って誰が作ってるの?そんなにお料理が上手な人なら、いろいろ
教えて欲しいなあ」
 食事を続けていると、こちらの様子をうかがっていたのか、皐月さんが話しかけてきた。
「皐月さんって、自分で料理作ったりするの?」
 何気なく聞いてみると、
「うん、うちの事情でね。だから料理が好きってわけじゃないんだけど、少なくとも人並
みの腕前は持っているつもりなんだ~」
 えへへ、という感じで皐月さんはうれしそうに微笑む。
「ん? 人並みの腕前を持っているのに、どうして料理を習いたいわけ?」
 いつの間に気を取り直したのか、すでにお弁当をたいらげた花梨が皐月さんに当然の質
問を投げかけた。
 その返事は、いかにも皐月さんらしい答えだった。まだ会ったばかりなのにどうしてそ
う思ったのかはわからないけど、すごく彼女らしいと思えたのだ。
 皐月さん曰く、
「だって、好きな人にお料理を作ってあげるとしたら、やっぱりおいしいほうがいいじゃ
ない♪」



 朝から降り続いている雨は多少は小降りになったものの、まだまだ6月の雨の勢力は衰
えそうもない。
「ふーん、じゃあ瀬能君の家には、瀬能君とお手伝いの雪さんのふたりだけなんだ」
 そんな雨の中を、僕は皐月さんと一緒に歩いている。
「ひとつ屋根の下に、若い男女がふたりきり……。これは花梨ちゃんや和泉ちゃんが心配
するのも無理ないかな」
 結局、僕は皐月さんのお願いを断りきれなかったのだ。思い立ったが吉日、ということ
わざが大好きなのか、皐月さんは今日から早速教わりたい、と言った。とはいえ、僕がで
きるのは皐月さんを雪さんに会わせる事だけで、その後のことは雪さんにまかせるしかな
い。
 もし雪さんが嫌がるなら、僕も強制できないから……。
「でも瀬能君なら大丈夫な感じがするよね。……なんとなくだけど」
 楽しそうにおしゃべりを続ける皐月さん。なんだか好き勝手なことを言われているよう
な気がするけど、不思議と嫌な感じはしなかった。
「大丈夫って何が大丈夫なの?」
「んー? だから、なんとなく。瀬能君は相手が嫌がることはしない人だと思うから」
 そんなことを話しながら歩いていると、僕の家が見えて来た。
「ただいまー」
 玄関の扉を開けて、家の中に呼びかける。すると、いつものように雪さんが出迎えてく
れた。
「おかえりなさいませ、透矢さん。……あら、そちらの方は?」
 僕の後ろにいる皐月さんに気づいた雪さんは、ちょっと警戒した表情だ。
「ああ、クラスメイトの皐月さん。今日、転校してきたんだ。ちょっと話があるっていう
から、うちに来てもらったんだ。雪さん、悪いけどお茶を用意してくれないかな」
 雪さんは僕の説明に「わかりました」と頷いてくれた。
 皐月さんを居間に案内しようとしたら、くいっと服の裾を引っ張られた。
「…なに?」
 皐月さんは僕の耳に顔を近づけて、小声で呟いた。
「雪さんって、すっごくきれいな人だね。……瀬能君、よくガマンしてるね?」
「…………………………」
 僕は無言で居間へ歩いて行く。
 僕のそんな様子を見て、楽しそうに皐月さんは笑った。



「え、雪にお料理をですか?」
「うん、ぜひ習いたいみたいなんだ。……どうかな」
 突然の話に目をぱちぱちさせる雪さん。うわあ、こんな雪さんも可愛いなあ…。
「時間があるときだけでいいんです。お願いできませんか」
 必死な様子の皐月さん。
「雪は……透矢さんがよろしければ、お教えするのにさしつかえはありません」
「ほんとですかっ!」
「はい。……よろしいですか、透矢さん」
 と言って、僕を見つめる雪さん。そして、期待に満ちた目で僕を見つめる皐月さん。
「ああ、構わないよ」
「やったー!!」
 その瞬間、皐月さんは雪さんに抱きついていた。
 雪さんは最初はびっくりした顔だったが、次第に皐月さんを見つめる目が柔らかくなっ
ていった。そんな雪さんの表情は今までに見たことがないような気がして、ちょっとだけ
皐月さんに嫉妬した。



「じゃあ、毎朝のように雨乃は透矢の家に行ってるの?」
「正確には、毎朝と毎晩だね。雨ちゃんすごく熱心なんだ。どんなに忙しい時でも来るん
だよ」
 その日、部活の朝練に行くという花梨に付き合って、いつもより早く家を出た。相変わ
らず降り続く6月の雨の中、花梨とふたりで歩いて行く。
 皐月さんが転校してきてからあっという間に2週間が過ぎた。僕らはずっと前からの親
友のように仲良くなっていた。
「だからかな。最近の雨乃のお弁当、なんだか雪のお弁当の味付けに似てきたような感じ
がするんだもん」
 どうして花梨が雨ちゃんのお弁当の味付けを知っているんだろう……。
「雨乃ったら、最近ブロックが厳しくてなかなかお弁当食べさせてくれないのよね」
 人のお弁当を取るのはよくないと思うな。特に僕のお弁当の卵焼きは……。
「あの卵焼きだけはまだまだ雪の味付けには及ばないみたいだけどね。あ、そうそう卵焼
きと言えばさ、このごろ牧野さん来ないね」
 牧野那波ちゃん。クラスメイトだ。黒くてまっすぐな長い髪は本当に見とれてしまうほ
どキレイで、いつも花梨に冷やかされている。
 ちょうど雨ちゃんが転校してくる少し前から、牧野さんは体調を崩したとかで休んでい
るのだ。
「和泉ちゃんによると、だいぶ体調は良くなってるみたいだけど……」
 どうも湿気がよくないのか、毎年のようにこの時期は休んでいる牧野さん。たぶん7月
になれば梅雨もあけてよくなると思うんだけど。
「でも、卵焼きで牧野さんを思い出すなんて、花梨らしいね」
「だって、牧野さんが卵焼きを食べている時の顔は本当に幸せそうなんだもん。ほっとく
と、それこそ卵焼きがいくつあっても足りないよねー」
 事実その通りなんだけど、それで思い出される牧野さんもなんだかな。
 ……………………………………
 ふっと、会話が途切れた。
 雨の音の他には、僕らの足音が聞こえるだけ。
「……あのさ、透矢はさ」
「うん?」
「…………雨乃のこと、どう思ってるの?」
「え?」
 突然の花梨の質問に、足が止まる。
 ざー…………。
 雨の音。
「前、言ってたよね。夢に出てきた女の子に似てるって」
 沈黙している僕に、花梨は静かに問い掛ける。
 その通り。雨ちゃんは、皐月雨乃は僕の夢に出てくる女の子にそっくりだ。
 はじめて彼女の夢を見た日だけではなく、その後も時々彼女は夢に出てくる。何かする
わけでもなく、ただ笑っているだけだが。
 そう言えば、その日以来ナナミ様の夢は全然見ていない。
 何か関係があるのだろうか……。
「わかった。質問を変えるわ。……雪と雨乃はどうなのよ?」
「雪さんと雨ちゃんは、別にどうって言われても。普通に仲良しだけど」
 花梨は僕をじとーっと見つめて、
「本当にそう思ってる?」
 と、溜息混じりに言った。
「いいわ。何も今決めなくちゃいけないわけじゃないし。でも」
 僕の前を歩いていた花梨は、くるっと振り向いて
「少しは考えておいたほうがいいんじゃない?」
 と言って、歩いていった。
 ざー…………。
 雨の音。
 花梨の足音が遠ざかって、僕はしばらくの間、その場から動けずにいた……。



「じゃあ、今日はこれぐらいにしましょうか」
「はい!」
 食堂からは、すでにお馴染みとなったふたりのやりとりが聞こえている。
 僕は部屋にいても特にすることがないので、こっそりと食堂の様子をのぞきに来ていた。
 気づかれないようにできるだけ注意しながらそっと顔を出してみると、こちらを見てい
た雪さんと目が合った。
「透矢さん。お茶でもお入れしましょうか?」
 にこにこと雪さんは笑顔だ。
「あはは…、お願いします」
 見つかってしまったことをごまかすために照れ笑いを浮かべながら、僕は食堂の椅子に
腰掛けた。
「あ、じゃあ私が透矢君にお茶入れてあげるよ。雪さんも座って待っててください」
「いえ、お客様にそのようなことは……。雨乃さんこそ座って待っていてください。お疲
れでしょう?」
 洗い物をしていた雨ちゃんの申し出を雪さんはやんわりと断った。
 そんなことない、と言いたげな雨ちゃんにそっと耳打ちする。
「雨ちゃん。雪さんの仕事だから、取らないであげてよ」
 その一言で納得してくれたのか、雨ちゃんは引き下がってくれた。



 雨ちゃんを家まで送ってから戻ってくると、21時を過ぎていた。出迎えてくれた雪さ
んは少し悲しそうな顔。
「ごめんね、雪さん。雨ちゃんとお話してたらちょっと遅くなっちゃった」
「いえ。……雪は、透矢さんが無事に戻って来てさえいただければ、それだけで十分幸せ
ですから」
 いつものやり取りなんだけど、今日はどうしてか、その言葉が寝るまで心の片隅に引っ
かかって仕方なかった。



 それから、また2週間ほど過ぎた。
 天気は相変わらず雨が多くて洗濯物の乾きにくい時期だが、気分が憂鬱になることはな
かった。
 花梨も雨ちゃんのお弁当に文句を言わなくなったことから考えても、雨ちゃんの料理の
腕前は確実に成長していっているのだろう。
 そして和泉ちゃんの話によると、牧野さんの体調もだんだんよくなっていて、7月には
学園に復帰できるのではないか、ということだった。
 そんな、7月を目前に控えた週末の日。
「おはよう、雪さん。……今日も雨だね~。雨降りだと洗濯物が乾かなくて大変じゃない
の?」
 朝食の準備をしている雪さんに挨拶しながら席につく。
「おはようございます、透矢さん。そうですね、確かに洗濯物は乾きにくいです」
 トントントンとリズミカルに包丁を扱いながら答える雪さん。
「でも、雪は雨ってそれほどイヤじゃありませんよ?」
「へえ、どうしてなの?」
「それは、雨は全てを覆い包み込んでくれる気がするからです。今日みたいなお天気の日
に、こうやって、腕を広げて雨の中で立ち尽くすんです」
 雪さんは両腕を広げて目を閉じる。
「そして雨に打たれていると、いろいろなことが流れて、流されて、きれいになれるよう
な気がするんです……」
 目を閉じて腕を広げてたたずんでいる雪さんは、なんだかいつもと違って見えて、まる
でどこか遠くにいってしまいそうな、近くにいるのに離れているような、そんな不安定な
感じがした。



「……え?」



 雪さんの驚いた声。気が付けば、僕は雪さんを抱きしめていた。
「ダメだよ、雪さん? そんなこと言っちゃダメだよ。僕はここにいるから。僕が雪さん
を包んであげるよ」
 ぎゅっ
「透矢さん……」
 雪さんの頬が赤く染まる。



「……僕が、雪ちゃんを、守るから」



 いつかどこかで口にしたそんな約束。
 忘れないように、僕はもう一度約束をして。
 雪さんの額にそっと口付けして、頭を優しく撫でた。



 7月。先週までの雨はどこへ行ったのやら、まぶしい陽射しが青い空に輝いている。
 7月になって、変わったことがふたつあった。
 ひとつめは、牧野さんが学園に復帰した。
 相変わらず僕のお弁当から卵焼きをおいしそうに食べている。もうすっかり体調はいい
みたいだ。
 そしてふたつめ。雨ちゃんが、いなくなった。
 お父さんの都合で突然転校が決まったらしい。
 別れる当日、雨ちゃんは僕にお弁当を作ってきてくれていた。そのお弁当はとてもおい
しかったんだけど、彼女の質問には困らされた。



「雪ちゃんのお弁当と、どっちがおいしい?」



 雨ちゃんは僕が困っている様子を見て、今までで1番楽しそうに笑った。
「また遊びに来るよ。この町、気に入っちゃったもん。花梨ちゃんも和泉ちゃんも雪ちゃ
んも、それに……透矢君もいるしね」
 そう言い残して、雨ちゃんは行った。
 はじめて会ったときから別れるときまで、楽しそうな笑顔が印象的な女の子だった。



 ガラガラガラガラ
「おはようございま~す」
「暑い暑い暑いー」
 玄関の扉が開く音。
「あ、那波ちゃんと……」
「花梨さん、ですね」
 毎朝繰り返されているやり取り。
「じゃあ、行ってきます。雪さん」
「はい、いってらっしゃいませ。透矢さん」
 お互い顔を見合わせて、笑い合う。
 できるなら、この幸せな時間がずっとずっと続きますように。



 おわり



あとがきのようなもの





みなさん、はじめまして。朝霧玲一と申します。
今回、はじめて同人誌というものに寄稿させていただいたわけですが、いかがでした
でしょうか?
発行時期が6月末~7月だろうと推測したことから、今回のネタが浮かんだわけですが。
しかし、出来上がってみれば雪さんの出番が少ないような……。
「水月」では1番好きなキャラは雪さんなのに、どうしてなんでしょうか。
どう考えてもオリジナルキャラに出番取られちゃったよね……。でもこの子がいないと、
この作品は全く意味がなくなってしまうので、みなさんに気に入っていただけると嬉しい
のですが。
あと、えちぃシーンも書きたかったんですが、ストーリーの展開上、入れられません
でした。
せっかくのチャンスだったので、少し心残りだったりします。
今回、お誘いいただきまして、どうもありがとうございました。あわさん。
そして、この作品を読んでいただいた方々、本当にありがとうございました~。



��004.5.30