2009/07/12

「雨あがり」(FORTUNE ARTERIAL)(千堂 瑛里華)



 六月の梅雨空は月が変わるのと同じくして消え去り、七月に突入した途端に、気の早い
セミの鳴き声がBGMとして聞こえてくるようになった。
 暑さをパワーアップさせてくれるセミの鳴き声だが、七月の初旬ではまだ効果も薄く、
むしろ気分転換になるようだ。
「う~ん、もう夏ねえ~」
 書類と格闘していた瑛里華は、セミが見えるかしらと窓から外を覗いている。
「いや、まだ七月になったばかりじゃないか?」
「でも、これだけ暑いんだし、セミも鳴いてるし、夏って感じがするでしょ?」
 まぶしそうに手をかざしながら外を眺める瑛里華を、孝平はじっと見つめる。
「ん、どうかした?」
「ああ、なんか夏らしいなって思って。瑛里華は太陽がよく似合う」
 孝平の台詞に、瑛里華は顔を赤くする。
「そ、そういうことは気軽に言わないの。……もったいないでしょ」
「はは、悪い悪い。それじゃ、仕事に戻ろうか。今日は白ちゃんがいないから、俺がお茶
を入れるよ」
 給湯室に向かう孝平を見送った瑛里華はうれしそうに微笑むと、書類に向き合った。



 やがて、眩しかった太陽も沈み、セミの声も聞こえなくなって。
「それじゃあ、そろそろ帰ろうか」
 孝平が瑛里華に声をかけると、
「ごめん、もう少しで終わるの。だからこれだけ片付けておきたいから、孝平は先に帰っ
てていいわよ」
 手を動かしながら、答える瑛里華。その額にはうっすらと汗がにじんでいる。
「そうか。それじゃあ、俺ももう少しやっていこうかな?」
「あ、孝平は先に帰っててほしいの。……そしたら、私が帰る頃には孝平の部屋のエアコ
ンがちょうどお仕事してくれてる頃でしょう?」
「なるほどね。ちゃっかりしてるなあ」
「しっかりしてる、と言ってほしいわ。それじゃあ、また後でね」
「了解」
 孝平は瑛里華の邪魔にならないように、静かに扉を開けて出て行った。



 三十分程経ち、瑛里華は顔を上げた。
「よぉし、これでこの書類はおわりっと。それじゃ、戸締りして帰りましょう♪」
 テキパキと片付けを済ませて監督生室を出た瑛里華だったが、すぐに足を止めることに
なる。
「……あ、雨え?」
 夕方は間違いなく晴れていたのに、セミの声も鳴いていたのに。
 瑛里華の目には、しとしとと降る雨がくっきりと映っていた。
「天気予報は見ていなかったけど、それにしてもあんなにいいお天気だったのに……」
 ぼやいても聞いてくれる人はおらず、雨がやんでくれるわけでもない。
「置き傘もないのよね……、私の折り畳み傘は孝平の役目になってたから」
 少し前から、瑛里華は折り畳み傘を持たないようになっていた。それは、孝平が瑛里華
の代わりに傘を差してくれるからだ。お互いが納得しているのだし、かなでにからかわれ
たりもするけれど、雨の日のささやかな楽しみになっている。
 でも、今日は孝平がいない。先に帰らせてしまったのは他の誰でもない瑛里華なのだか
ら、文句が言えなかった。
「以前なら、ここと寮ぐらいの距離ならあっという間だったけど……久しぶりに全力を出
してみようかしらね」
 そう呟いて目を瞑り、再び目を開いた瑛里華の瞳は、紅く輝いてはいないが、勝気な色
が溢れていた。



 瑛里華が全力モードになるのと時を同じくして、目を開いた少女がいた。
「(空の具合から判断すると、放課後から数時間というところかしら)」
 と言っても、雨の空では時間経過も判断しづらいのだが。
 横たえていた身体を起こすと、すでに衣服はたっぷりと雨を吸い込んでおり、艶やかな
黒髪がしっとりと濡れていた。
「(水もしたたる何とやら、ね)」
 雨を鬱陶しく思いつつも、表情には出さずに立ち上がる。濡れた衣服が身体に纏わりつ
くが、その表情からは何も伺うことはできない。
「今更、よね」
 自嘲気味に独り言を呟くと、桐葉はゆっくりと歩き出した。
 桐葉がいなくなった丘は、桐葉が目覚める前からと同じく、静かに雨が降り続いていた。



 一足早く帰ってきた孝平は、部屋のエアコンを運転させると部屋の掃除を始めた。慣れ
親しんだ相手が来るとはいえ、汚れた部屋に迎え入れることはしたくない。それぐらいの
デリカシーは持ち合わせている。
「おっと、そういやベランダの入り口も鍵を閉めておかないとな」
 いつも、不意に上の部屋からやってくるお客のことを思い浮かべながら鍵をかけると、
窓が濡れていることに気がついた。
「あれ、雨か?」
 一度閉めた鍵を開けてみたら、激しくはないが傘を差さないわけにもいかない程度の雨
が静かに降っていた。
「……しまった!」
 孝平はぼやくと同時に駆け出していた。部屋を出た孝平の右手には、大きめの傘が一本
しっかりと握られていた。



「はぁっ……もう少しっ……」
 雨の中、全力疾走を続ける瑛里華は、すでにぐっしょりと濡れそぼっていた。
 ここまで濡れてしまうと今更急いでも仕方ないのだが、持ち前の気性で一度決めたこと
を覆したくはない、その一心で走り続けていた。
 足を止めるのは寮の玄関に辿りついた時、と決めていたのだが、見覚えのある人影が目
に入ったので、瑛里華は足を止めた。
 白鳳寮まであとわずか。そのあたりを悠々と歩いているのは、紅瀬桐葉だった。
「紅瀬さん? 何をしているのよ」
 ちらりと瑛里華のほうを見る桐葉。だが何も言わない。
 見ればわかるでしょう、とその目は言っているように瑛里華は感じた。
「……まあ、事情はさておいて、傘を差してないってことは持ってないのよね?」
「ええ」
 物分りがよくて嬉しいわ、とその目で答えて桐葉は歩き出した。悠々と。
「ちょっとちょっとー! だからってなんでのんびり歩いてんのよ!!」
 がっしりと桐葉の腕を掴む。
「……何か問題でもあるの?」
 面倒くさそうに口を開く桐葉。
「濡れたままほおっておける訳ないでしょっ」
「ちょっ……」
 有無を言わせぬうちに、瑛里華は桐葉の手をつないだまま走り出した。



 孝平が寮の玄関に着くと、そこには二人の少女がびしょ濡れになったまま、息を荒げて
口論していた。
 しばらくそれを聞いていた孝平は事情を理解して、そしてこう言った。
「まあまあ……えーと、二人とも水もしたたるイイ女ってことで」
「……」
「……」
 沈黙が走る。
「あれ、俺何か変なこと言ったか?」
「……ふう、やれやれね。貴女の彼氏に免じて今日はこれぐらいにするわ」
「そうね、私も紅瀬さんと同意見よ」
「「お風呂に行きましょう」」
 キレイに声を重ねた二人は、大浴場へと姿を消した。
 孝平は一人取り残されたまま、首をひねっていた。



 女子大浴場は、まだ時間も早いせいか誰もおらず、実質貸し切りのような状態になって
いた。
「うわ~、正にひとりじめって感じね♪」
「……そうね、ひとりじめだわ」
 瑛里華の声に桐葉が反応する。もちろん、この時点で『ひとりじめ』ではないのだが。
 かけ湯をして湯船に入ると、瑛里華は足を伸ばす。
「う~ん、やっぱり大浴場は気持ちいいわね~。部屋のお風呂だと、なかなか足は伸ばせ
ないもの」
「それだけは同感ね」
 桐葉も同じように足を伸ばす。そんな桐葉を瑛里華がじっと見つめている。
「どうかしたのかしら」
「いえ、その……」
 珍しく瑛里華が口ごもる。
「言いたいことは言ったほうがいいのよ。お風呂場では衣服を脱ぐもの。言いたいことを
抱えているというのは、服を着たままお風呂に入っているようなものよ」
「……なるほど。妙に説得力がある台詞ね」
「当然よ。二百五十年の積み重ねなんだから」
 それをさらりと言えるのは、彼女が本当に二百五十年を過ごしてきたからだろう。
 吸血鬼の眷属。完全な不老不死ではないものの、永遠の命と言ってもさしつかえない存
在なのだ。その時間は、たった十数年しか生きていない瑛里華には想像することしかでき
ない。
「えっと、それじゃあ言うわね」
 コホンと軽く咳払いをして、瑛里華は言った。



「どうしたら、紅瀬さんのように素敵な胸になるのかしら」



 ……。
 カポーン、という音がどこかで聞こえたような気がした。
「よく聞き取れなかったのだけど、もう一度言ってもらえるかしら」
 桐葉が問うと、瑛里華は同じ答えを返した。
「……。ふう、まさか貴女からそのような質問が来るとは思ってもいなかったわ」
「ごめんなさい。紅瀬さんとこうやって二人でお風呂に入ることって、今までになかった
から。それで、どうなの?」
「そうね……」
 目を瞑って考える桐葉。
「私の言うことを信じて実践する、と言うのであれば、教えて上げてもいいわ」
 挑発するように瑛里華を見る桐葉。
「い、いいわ。私に二言はありません!」
 力強く瑛里華が言うと、桐葉は口の端を緩めて微笑んだ。



「まずは、こうするのよ」
「……っ!」
 桐葉の手が、瑛里華の胸をやさしく掴んだ。決して小さすぎることはないそれは、桐葉
の手にすっぽりと収まっている。
「あ、あの紅瀬さん? やっぱり自分で……」
「それでもいいのだけれど、それだと時間がかかるのよ。他人にしてもらったほうが何倍
も効率がいいのよ」
 そう言って、桐葉は両の手を動かした。その動きに応じて、瑛里華の胸は形を変える。
「やっ、ちょっと……あっ」
「まずは軽くマッサージね。手は固定して腕全体を動かすような感じよ。それが慣れてき
たら、次は指を動かすの。やさしく揉みあげるようにね……支倉君に揉まれているように、
ね」
「そっ、そんなこと……していないわ」
 否定はしたが、瑛里華の声にはいつもの力強さはない。
「まあ、隠さなくてもいいのに」
 桐葉は艶やかに微笑むと、瑛里華の耳元に息を吹きかけるように囁いた。
「貴女に二言は無いのでしょう?」



 マッサージ。単純だが、それが一番効果があるらしい。
「好きな人に揉まれると大きくなると言うでしょう。一から十まで本当ではないけれど、
まるっきり嘘と言うわけでもないのよ。もちろん、自分で揉んでもいいのだけど、効果が
薄いのが難点ね。私は、時間がいくらでもあったから……」
 確かに、眷属である彼女にとって、時間はいくらでもあったのだろう。その成果が、今
のこのプロポーションに現れていると言われれば、信憑性は高い。



 たっぷり二時間後。孝平の部屋にやってきた瑛里華は、疲れきっているが満足気な表情
だった。
「ずいぶんゆっくりだったな。紅瀬さんとケンカでもしてたのか」
「ううん、彼女、とってもいい人だわ!」
 嬉しそうに瑛里華が風呂での出来事を話すと、孝平は笑い出した。
「ちょ、ちょっと何がおかしいのよ。そりゃあ、胸の大きさのことなんだから、ちょっと
は恥ずかしいけど、女の子にとっては大事なことなのよ」
 頬をふくらませて瑛里華が言う。
「だってさ、絶対騙されてるって」
「なんでそう言い切れるのよ」



「紅瀬さんって、眷属なんだろう。眷属も吸血鬼同様不老不死ってことは、肉体的に変化
はないってことだよな」



「あ……」
 と言って、瑛里華は固まった。
「騙されたわ……」
 仰向けにバタリと倒れて、瑛里華はぼやいた。
「しょうがないさ。相手は二百五十年生きてるんだろ、騙しっこでは向こうに一日の長ど
ころか二百五十年以上先を行かれてるから」
「それでもくやしいわ」
「それじゃあ、紅瀬さんの言うことが本当かどうか試してみよう。そうしたら瑛里華も納
得できるだろ?」
 そう言うと、孝平は瑛里華の服のボタンを外し始めた。
「ちょ、ちょっと」
「……? 着たままのほうがいいのか?」
「そ、そう言う事じゃ……んっ」
 文句を言いかける瑛里華の唇を、孝平の唇が塞いだ。



 はたして、桐葉の言葉は嘘か真か。確かめるには実践あるのみ。
 夜はまだまだ長い。
 いつの間にか雨は上がり、きれいな満月が顔を覗かせていた。






おわり



0 件のコメント:

コメントを投稿