2010/02/01

「とびきりの天罰」(夜明け前より瑠璃色な)(エステル・フリージア)



 眠れない夜を過ごして、二月一日になった。
 ようやく峠は越えたのだろう、さきほどから聞こえている寝息もずいぶんおだやかだ。
 達哉はなるべく音を立てないように扉を閉めると、安堵の溜息をそっとついた。
「お疲れ様、達哉くん」
 リビングに入ると、さやかがお茶を出してくれた。
「ありがとう、姉さん。……う、苦い」
「そうかしら? とっても美味しいのに、この特濃緑茶」
 さやかが愛飲している特濃緑茶だった。
「身体にもとってもいいのよ。疲労回復、眠気ぱっちり、筋肉隆々」
「まあ、姉さんを見ていれば、それはわかるけどさ」
「失礼ね、私は筋肉隆々じゃありません#」
 自分で言っておきながら、さやかはこめかみに青筋を立てる。
「なんてね。でも、前の二つは本当なんだから。今の達哉くんには必要だと思うわよ?」
「どうして?」
 さやかはにっこりと微笑む。
「だって、これから礼拝堂に行くのでしょう?」



 手早くシャワーを浴びて、身支度を整えると達哉は家を出た。
 外の空気は二月らしい冷たさに満ちており、吐き出される息も真っ白だ。
「今日はずいぶん寒いな」
 はやる気持ちを抑えながら、達哉は歩いていく。目指すは礼拝堂だ。
 通い慣れた場所ではあるが、少し気が重い。
「エステルさん、怒ってるかな……」
 エステル・フリージア。満弦ヶ崎にある月人居住区に赴任してきた司祭である。
 昨日が彼女の誕生日だということはずっと前から知っていて、そのための準備も念入り
に済ませていたのだが、緊急事態が発生したためにすべてが水の泡となってしまった。
「でも、そんなのは単なる俺の言い訳だから」
 何を言われても仕方がない。
 とにかく今は、ひとめでも早く彼女の顔を見たかった。



 礼拝堂の重い扉を開くと、そこには見知った顔の高司祭様がいた。
「おはようございます。モーリッツさん」
「おはようございます。朝霧さん。今日はずいぶん早いですね」
 いつものおだやかで深みのある声を聞くと、少しだけ落ち着いた。
「あの……エステルさんは」
「……部屋におりますよ。ただ、朝霧さんが来たら部屋には入れないようにと言われてお
りますが」
 ……やっぱり、怒っているのだろうか。
「おおよその事は察しがつきますので、私からは何も申しません。それで、朝霧さんはど
うされるおつもりですか」
「きちんと謝って、許してもらいたいと思います」
「おや、朝霧さんは何かエステルにされたのですか?」
 モーリッツはいつもと変わらずに微笑を浮かべている。
「いえ、そういうわけでは。ですが、私が彼女に謝りたい気持ちは変わりません」
「……そうですか。では、どうぞお通りください」
「いいんですか?」
「私はエステルに『入れるな』と言われただけで、貴方を止めろと言われたわけではない
のです」
「……どうもありがとうございます、モーリッツさん」
「いえ。エステルのこと、よろしくお願いします」
 深く一礼すると、達哉はエステルの部屋へと向かった。



 こんこん
「……はい。何でしょうか」
 とても重く、冷たい声だった。会ったばかりの頃でも、こんな声は聞いたことがない。
「朝霧です。あの、エステルさん……おはようございます」
 とっさに出てきたのが、ただの挨拶だった。
「おはようございます」
「あの、……開けてもいいでしょうか」
「………………どうぞ」
 随分、間があった。
 これは相当だなあと思いながら、達哉はゆっくり扉を開くと、赤い何かが視界いっぱい
に広がった。



 ピコン☆



「うわあっ?」
 びっくりして尻餅をついてしまった。
「何をしているのですか、達哉」
 顔を上げると、エステルさんがうれしそうにピコピコハンマーを構えていた。



「俺、エステルさんは怒っているものだとばかり思っていました」
 エステルが淹れてくれたお茶を飲みながら、達哉は言う。
「どうしてです? 達哉が何も言わずに約束を破ることなんてありえないと思ったから、
私はこうやっておとなしくしていたのですよ」
 先ほどのピコピコハンマーはおとなしく、の部類に入るらしい。
「すみません、麻衣が突然熱を出してしまって、その看病をずっとしていました」
「まあ、麻衣が……。今は大丈夫なのですか?」
「ええ。夕べに比べるとだいぶ落ち着いたので、姉さんにバトンタッチしてきました」
「そうですか。それは何よりです」
 エステルはほっと胸をなでおろした。
「でも、連絡もしなかったのは俺のミスです。そのせいで、エステルさんを不愉快にさせ
てしまいましたから。どうもすみませんでした」
 達哉は深く頭を下げた。
「達哉のせいではないではありませんか。だから、謝る必要なんてありませんよ」
「いえ、でもそれでは申し訳なくて。天罰でもなんでも、甘んじて受けます」
「……わかりました。それでは、そこに座って頭を下げてください」
「はい」
 達哉は言われたとおりにすると、おもむろにエステルは達哉の頭を抱きしめた。
「達哉がとても家族想いで、私は嬉しく思います。これからも、家族を大切にしてあげて
ください。……それでは、天罰です」



 エステルは、そっと達哉に唇を重ねた。



 一、二分経ってから、エステルはそっと離れた。
「いかがですか、達哉?」
 エステルが頬を染めながら問いかけると、達哉は真面目な顔でこう答えた。



「とびきりの天罰ですね」と。 



おわり



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